べつに自由じゃない

人から「自由でいいね」とか「すぐに会社をやめられてうらやましい」とか、そういう反応をもらうことがある。そういうときにいつも、「ああ…」とか「そうですかね…」くらいしか返せず、あとになって「ちがうんだけどな…いや、ぜんぜんちがうわ」と反論したくなっても、わざわざLINEなりメッセンジャーなりで考えを送り付けるのは意味不明なので、ここに書き残しておきたい。(なお、そのような反応をしてくる人たちに悪意があるかどうかという問題は、また別の機会に書いてみたい。悪意ってそんな単純なもんじゃないと思う。)

 

現在35歳で、会社をちょこちょこと辞め、結婚もしていないとなると、まあそういうことを言われるのは当然か、とも思おうとしてみたけど無理だった。この手の誤解にいちいち傷つく。なので、なんで傷つくのかを考えてみたい。傷つくからケアしろとか、そんなこと言わないでくれっていうより、なんで傷つくのかのほうが大事かも、と思ったから。

 

そもそも自由ってなんなんだってことからなんだけど、わたし自身にしても、これまでは自分の自由を守ることがいちばん大事だと思っていた。たとえばこれは恋愛の話だけど、付き合っている人がいても、観たい演劇やライブを優先させたい。友だちに会いたい。寝たいときはひたすら寝たい。それを許す人としか付き合えないと思っていた。なんなら、時間がある限りベタベタするよりも、したいことをし合うほうが自立してていいじゃんと思い込んでいた。(「自立」とか「依存」についても改めて考えたい。わたしは本心では依存を求めているのかも、と最近思ったので)それが揺らいだのは、前に付き合っていた人に「自由の意味をはきちがえてる」と言われたときだった。そのときにはそのことばの真意を聞くことはできなかったけど、それ以降「自由ってなに」だとか「ほんとうに自分が必要としてるのはなに」だとかの問いが浮かぶようになった。

 

先々週、滋賀に住む友人が東京に遊びに来た。家族でディズニーランドに行くのが目的らしく、空いた時間に会おうということだったので、その間は夫とお子さんとは別行動なのかなと思っていた。ところが夫もお子さんも一緒に来ると聞き、実をいうとすこし気おくれしたんだけど、実際に合流してみたら余計な気をつかうこともなく楽しく過ごした。その友人が、夫や子ども、そしてわたし(ともうひとりの友人)に不用意な気をつかわなかったからなんだと思う。彼女はもともとそういう気持ちのいい人なのに、家族連れというだけで窮屈さを感じる自分に問題がありそう。それと同時に、彼女のあり方は自由ってことなのかもなあ、なんてことを思った。

 

広告のコピーにハッとしてしまうのもくやしい話だけど、「自由は、ひとりになることじゃなくて誰といても自分でいられること。だったりして。」と書かれたポスターを駅のホームでみかけた。(「だったりして。」の付け足し方がしゃらくさい、、、というのはおいといて)滋賀の友人の、のびのびとしたあり方を考えながら、いつか見たこのコピーを思い出していた。

 

つまりそういうことで、会社や恋人と関係を切ってひとりになろうとしてしまうのは、自分が自分のままでいられず辛いからなんだけど、なにがそうさせているのかというとそれは自分自身の問題で、否定されることを異常なまでに恐れているという点に尽きる。(仕事と恋愛をいっしょくたに考えるのもどうかと思うけど、たぶん居場所の話をしたいのだと思う)最初はお互いの合意で始めた関係なのに、徐々に自分のままではいられなくなり、決定的な何かが起きてしまう前に、自分からその場を離れようとしてしまう。 これを何度か繰り返している、と聞いたら「自由でいいね」とはならないんじゃないかな~。まあ、言われてもいいけど。

 

ちなみに、自由の意味を考えるきっかけをくれた人は、浮気という形で実に鮮やかにわたしを裏切ってくれた。浮気が原因で人と別れたのははじめてだった。否定されないよう慎重に生きてきたのに、まさかそんな風に裏切られる日が来るとは。(しかもその前日にソフィカルというアーティストの失恋にまつわる展示を見ていたので、うまくできているなぁと妙に感心してしまった)とまあ、しばらくの間動揺していたけれど、時間が経つと「いや、誰かの気持ちが自分から離れたとしても、自分の価値や、価値なんてことばよりもっと前にある、存在していることそのものが脅かされるわけではないのかも」と思うようになった。これもくやしまぎれというか、そう思わないとやっていけないっていうことなのかもしれないけど、その考え方の先に、本当の意味での自由とか、人とやってくことのヒントが見つかるような、そうでもないような。

 

と、いまのところはそんなことを思っています。

 

とりもどしたくなった

たとえば「死にたい」とTwitterに書いたとして、そうすると「どうしたの?」とか「大丈夫?」ってリプライがつくかもしれないし、親切な人のなかにはわざわざ直接連絡をくれる人がいるかもしれない。そのなかの気を許せる相手には、なぜ「死にたい」と書き込むに至ったかをぼそぼそとちょっとずつ話すことができるかもしれない。

 

いま別に死にたいわけでも、だれかに過剰な心配をされたいわけでもない。「死にたい」は大げさでわかりやすいかなという例。そうではなくて、たとえば「死にたい」って書き込むまでに起きたことがらや気持ちの変化についてもう少しちゃんと説明できるようになりたいと思った。Twitterなのかなんなのかに毒されまくって、ことばの奥にある膨大な感情やそのグラデーションを見過ごす癖がついているんじゃないかと思うことが増えたのだ。

 

自分の思ったことや言いたいことをうまく伝えられなくて、もどかしさを感じるのは以前からだけど、そのレベルがいかんとこまで来ていて、昨日もそんなことがあった。いまわたしはほぼ離職中なんだけど(この離職という状態そのものについても、周りからもらう反応と、自分の本心とにすごく乖離したものを感じる。だからそれも一回書いてみたい)、やさしい友人が「次はどんなことをするの?」と聞いてくれたときに、「いや、なんもしたくないし、はたらきたくない」と答えた。自分で言っといておかしなものだけど、これは本心からかけ離れていて、物ごとを単純化しまくってるし、考えることを止めてしまったような発言だ。言い放った瞬間からすぐにちりちりと嫌な気持ちが拡がるのを感じた。せっかく関心を持って話を聞いてくれる友人に対して不誠実だ。

 

そんなようなことを思う機会が増えたので、少しだけ立ち止まって物ごとを考えるくせをつけようと思い、そのためには少しだけ長めに、できるだけ自由に、なるべくうそつかないで書いてみると考えるとブログか、と思い至った。それがいろんなことを取り戻すために有効な気がしている。iPhoneのアプリに日記をつけていて、去年の12月からちまちまとメモ程度に思ったことを書き出していて、それはそれでセルフセラピーみたいな効果がある。だけどいま、表面張力ぎりぎりだったのがあふれた感じで、あと人間が卑しいところもあって、多少は人に読んでもらう可能性をおいておきたい。

 

とはいえ、いままでに何個もブログを開設しては放置、開設&放置、開設&放置・・・してきたものですから、とか言いつつ、まああんまり自分にプレッシャーかけるのもあれなんで(自分に甘い)、とりあえずのびのび書く、ということだけ決めて最初の日記は終わり。