2021年3月14日(日)/隣にいてほしい

相変わらず気忙しい。日記を書くよりも進めるべきことがあるがしかし! 一つのことを終えて次の作業に移るあいだに日記を書くと、頭の切り替えにちょうどいいんです。って誰に対して言い訳してるんだかよくわかりませんけど。

 

ところで今日は池袋でもくもく読書会をしてきた。何人かで集まって、ただもくもくと読書をする会です。前にもくもく会をしたいと思いTwitterで呼びかけ、そのとき実際に来てくださった方に今回は直接お声がけし、池袋の喫茶店で落ち合って、おのおの本を読み進めた。Twitterで何か書いて、いいねとかRTとかしてくれることはあっても、実際に行動を起こしてもらえることはなかなかないので、とてもうれしい。そういう方がひとりいてくれるだけで、物事が前に進んでいく。SNSというのはあくまで何かのきっかけに過ぎないので。

 

そんで、これも気忙しくなる前に計画していたもので、しかし計画したからには実行したい。だっていくら気忙しくても、2〜3時間は平気でSNSTVerに充てるのがわたしなのだから、だとしたらその時間を読書に充てたい。『3行で撃つ』を読んで、本を読むぞー!と猛っていた気持ちがどっかに行ってしまっていたので、己を戒めたいわけです。

 

で、今日は、半分まで読んでいたヴィルジニー・デパント『キングコング・セオリー』を読み終えて、昨日読み始めた外山恒一『政治活動入門』を少しだけ読み進めた。『キングコング・セオリー』を読んだら、去年松本人志が、一部の飲食業の人たちが雇用調整助成金支給の対象外になった件で、「水商売のホステスさんが休んだからといって、普段のもらっている給料をわれわれの税金では俺はゴメン。払いたくないわ」と発言した理由がわかった気がした。男性は自分の欲望を忌み嫌っておかないといけないらしい。ポルノに対する考察に納得する部分が多かったし、他の章もパシャパシャと写真に撮っておいた。引用したい箇所がたーくさんあるけど、また今度、って言ってやらなそ〜。ジェンダー系の本は次から次から気になるものがどんどん出ていて、なかでも信田さよ子さんの新刊『家族と国家は共謀する』を読みたいがまだ買えてもいない。

 

積読肯定派の意見もわかるけど、私自身は読むのが遅いので、あまりにも買ったのに読んでない本が増えると苦しくなってくる。誰かと一緒に本を読むための時間を区切って作り出し、読み進めていくのがよさそう。隣に本を読む人がいると、こちらも読む気持ちになれてほんといい。もくもく会メンバーは随時募集しています。新宿とか池袋とか、同じ場所に集まって、同じ時間に本を読むだけです。直接の知り合いの方で、興味ある人がいたら連絡ください。

 

2021年3月12日(金)/イマジナリー昭和の食卓

身支度中にラジオビバリー昼ズをつけてみたら、昭和のいいところだけ抽出したかのようなユートピア。わちゃわちゃしてて、これはなんだかmyイマジナリー昭和の食卓。みんなが言いたいこと言って、勝手にモノマネして、声が被りまくってるけど気にしないあの雰囲気、すごく和む。自我が溶けていきそう。『俺の家の話』の食卓風景も好き。大勢でワーワー言いながら食卓を囲むの憧れる。

 

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ところでこのところ気忙しい。なんとなく「忙しい」って言葉を使いたくない。せめて気忙しいと言いたい。個人でやってる仕事は、なるべく心のないことをやらないようにしたい。愛には愛で感じ合おうよ精神でいたい。しかしそうすると時間がかかる。ちゃんと考えようとすると、それなりに時間がかかる。たぶんわたしはナイーブすぎるのだろうが、見ようによっては短所になる部分をせめて自分は無碍にしないまま、生活が成り立つ仕事量をクリアできるようになりたい。あとあれだ、ちゃんとやろうと思い詰めてできなくなるパターンもあった。これがいちばんよくない! 

 

日記も書きたい。空いた時間にTVerでお笑い見るのも楽しいけど、受け身な遊びより、めんどくさい気持ちをおしてでも、自分で主体性を持って何かをしたほうが満足感が得られる。ジョギングとか筋トレもそう。始める前は気が重いのに、いざ始めると気が軽くなる。寝る前のシャワーもそう。なんでもそう。めんどうなことほどやったほうがいいんだろうな。

 

昨日遠隔で話した友だちは、ポッドキャストをやるのが健康にいいと言っていた。しゃべってみることで、自分のコンディションを把握できるらしい。いろんな友だちに自分なりの健康法を聞きたい。

 

健康で思い出したけど、膝が痛くなってきて、1週間くらいスクワットをサボっている。裸足でフローリングの上でやってるのがよくないのかも。ジムに通うまでもないけど、スクワットの正しい姿勢を学びたい場合はどうしたらいいんだろう。膝痛いのを言い訳にして、せっかく4ヶ月真面目にやってきた習慣が途絶えてしまいそう。しかし、最近飽きてきていたのも事実で、体が期待に応えて膝を壊しにいってたのかも。わたしの体はそういう都合のいいことをしがち。とりあえず、お靴を履いて再開してみようかなぁ。

 

2021年3月9日(火)/大河の一滴ですばい

昨日からGUで吸水ショーツを売り始めたと知って、帰りにいそいそとビックロに寄ったけれど、ほとんど売り切れていたし、わたし以外にも店員に問い合わせてる人がいて波を感じた。これまで出ていた吸水ショーツは、大体5,000円以上していたので(たしか)気軽には手を出せなかったけど、1,490円なら是非試してみたい。会社でいまやってる仕事にも関連していたので、このニュースをSlackで話題に出してみたら、「ナプキンを買えない貧困層の問題解決にもなりますね」という返答があって、何もまちがってはいない、だけど貧困層という言葉に遠い響きを感じ、前に千鳥の番組でノブが「貧乏」と言ったときに大悟がすかさず「貧乏って言うな、せめて貧しいとかって言え」みたいに訂正していたのを思い出した。大悟がいちばんモテる。去年のテレビ千鳥のブラジャー選ぶ企画もよかった。

 

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この記事がおもしろかった。

www.businessinsider.jp

稲田朋美といえば、いかにも名誉男性な女性議員の代表格みたいに言われていたし、そう思っていたので(しかし何故そう思っていたかよく覚えていないので、わたしのような民衆というのはずいぶん適当なモノよ)、最近「稲田朋美が変わった」的なニュースを見ても、またまた〜と流していた。でも、この浜田敬子さんによるインタビューは、そういう世間の疑念を念頭に置いて、稲田さんが考えを改めたきっかけについて切り込んでいた。

—— 稲田さんはこれまで安倍前首相の「秘蔵っ子」と言われ、保守中の保守のイメージが強かったです。クオータ制(女性へ一定数議席を割り当てる制度)にも、選択的夫婦別姓にも消極的でした。それがこの1、2年女性政策に非常に熱心になり、「変節」とも報じられています。防衛大臣の時の経験が自分を変えた、とおっしゃっていますが。

防衛大臣をやって私はペシャンコになったので。そこで弱い立場の人、自民党ではまずメインテーマになることはないところにに関心を持つようになりました。

—— 自民党内の女性議員比率は1割程度。それまではマイノリティでつらい思いをした経験はなかったんですか。

なかったんです。今から考えるとおかしかったなと思うぐらい、行革担当大臣や政調会長防衛大臣と順調過ぎたんです。でも、その中で1年間の防衛大臣時代は非常につらかった。自信もなくし、弱い立場の人たちの気持ちが自分のことのようになってしまったんです

—— 防衛大臣時代は南スーダン陸上自衛隊「日報隠蔽問題」などもあって批判されましたが、それ以外に女性の大臣ということでのつらさはありましたか。

スカート丈が短いとかイヤリングが揺れているとか服装への批判はこたえましたね。とにかく毎日週刊誌の記者が家の前に立っていて、毎週月曜日になると週刊誌からファックスが来て、何時何分から国会で寝ていたとか。

そういえば、自分が「なんなんだこの人」と思ったのもまさに防衛大臣だった頃の報道から受けた印象なんだと思う。そう考えると、その手の報道にあった偏見のまなざしを疑いなく受け入れてしまっていたんだろう。誰かのフィルターを通した報道でしか政治家を知る機会がないけれど、実際のところその人がそのポジションにいたことで成し遂げられたこと/成し遂げられなかったことをフラットに知る機会もほしい。

—— 女性で政界でポジションを上げていくと、発言の一つひとつが男性以上に批判にさらされるという実感はありましたか?

あるところまでは応援されるけど、ある一線を超えると急に批判が多くなると感じました。その一線はやはり大臣なのかなと。まだ数が少ないがゆえに注目され、批判の対象にもなる。これが女性閣僚が4割ぐらいなれば、もっと違ってくると思います。

このあたりも気になる。卑近な例ですみませんけど、以前の職場、役職が変わった瞬間自分に対する風当たりがド強くなった。それは最初の会社を辞めるに至るひとつの大きな理由だったけど、稲田さんはあれやこれやを経てもなお政治家を続けるところがすごい。彼女の政策をよく知らないけど、まず精神力がすごい。

 

この記事はそのあとも、変化した稲田さんの考えと自分の支持団体の価値観のずれにまだ折り合いがついていないこと、それまでコアな支持層だった保守の人たちがどんどん離れていって、女性の支持者がふんわりと増えてきてはいるもののいままさに過渡期でしんどいぜ、って言う話なんかが聞き取られていて、残される意味のあるインタビューという感じだった。

 

GUの吸水ショーツも、稲田朋美インタビューも、国際女性デーだった昨日発表されたもの。数年前までの自分は「女性」という括りに入れられることすら無意識に心が拒否ってたことを考えると、世の流れのおかげで自分もずいぶん変わった。自分も世の中も、10年経ったらまた全然ちがうことを考えてるんだろうな。わしゃ大河の一滴ですばい。

 

2021年3月7日(日)/ローズガーデンが3月末に閉店する

TVerで昨日の『その女、ジルバ』で観ていたら、マスターが作った朝ごはんがなんとも美味しそうだった。仕事しながら思い出して、もう一度TVerを開いてスクショしてみたら、

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たしかに美味しそうではあるんだけど、最初に観たときに感じたものとどうもズレがある。この朝ごはんそのものよりも、マスターがこの朝食を出してくれた状況にうらやましさを感じていたのかもしれない。ドラマでは、マスターのバーで主人公が働いているわけだけど、普段のわたしたちの生活を考えたとき、朝ごはんを作ってくれる関係というのはなかなかに親密。自分で作るご飯が嫌いなわけではないにせよ、誰かが自分のために朝ごはんを作ってくれることを想像すると、無茶苦茶甘やかな気分になる。

 

とはいえ、そんな関係性はいまないのだから、せめて中野の喫茶店でそれらしきごはんを食べようと思い立ち、去年の秋に存在を知った洋食屋さんに向かってみたら、今日は日曜だからお休みで、しかも張り紙が。

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今月末で閉店するという報せだった。そのあとは娘夫婦が中華料理店を始めると言う。残念で仕方ないが、せめて事前に知ることができてよかったとも思う。このお店の向かいにあった、老舗バーのブリックは、去年の緊急事態宣言中に店を休業したまま、一度もお店を再開することなく閉店してしまった。だから今回は、事前に知れただけまだいいのだ。あの100点満点のハンバーグを食べ納めできる。

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去年10月に初めて食べた時の、100点満点ハンバーグ

まだ2回しか行ってないわたしに閉店を悲しがる権利があるのか?とも思うけど、やっぱり悲しい。残念だと思う気持ちを、ほかの人と比べる必要もないのに、ついそういうことを考えてしまうよね。ああ、味を記憶できたらいいのに。そしたら自分で再現できるかもしれない。でも、マスターの朝ごはんと一緒で、食べ物そのものだけの問題じゃないんだよな。あのお店が年月を積み重ねてきた空間で食べたから、余計美味しかったんだと思うんだよな。

「穴」と「袋」からの脱却〜映画『あのこは貴族』

映画『あのこは貴族』を観た。

anokohakizoku-movie.com

松濤の良家に生まれ、そのまま実家で暮らす女性(門脇麦)と、富山の一般家庭に生まれ、猛勉強の末に慶応に合格して上京した女性(水原希子)。境遇の異なる2人の人生が、東京でひととき混じり合うお話。

 

階級のちがう2人の人生をクロスさせる役割を担うのが、高良健吾演じる、日本のなかでもトップオブトップに君臨する上流階級の男性だ。そんな家柄のド金持ちに接したことなんてもちろんない。しかし、彼が生まれた家にある、純度100%のガッチガチな家制度的価値観には既視感がある。この純度が薄まった世界に、わたしたちは暮らしている。この人たちがトップに君臨し続ける限り、わたしたち庶民はその薄まった価値観のなかで生きざるを得ない面があるんじゃないだろうか。この家は、政治家の家系らしく、おそらくは自民党所属だと思う。劇中に「子どもには、太郎とか一郎とか、人が書きやすい名前をつける」っていうセリフがあって、わ、あの人この人!と思い出し(高良健吾の役名は「幸一郎」)、生まれた瞬間から投票用紙を意識される運命というのも凄まじいものがあるなと思った。

 

あらかじめ家に決められたセーブポイントをこなすプレッシャーに晒される男性も辛いだろうが、その男性に振り回される女性の側も悲惨だ。

 

峰なゆかさんとの対談で田嶋陽子さんが話していたことを思い出す。「あえてひどい言い方になるけど」と前置きした上で、「男にとって、女は『袋』か『穴』か」と。つまり、家を継ぐ子どもを作るための「袋(=子宮)」を持った女か、欲求を満たすための「穴」を持った女か。この映画の場合は、門脇麦演じる良家の娘が「袋」で、水原希子演じる富山出身の女性が「穴」扱いされる。

 

これまでのドラマや映画なら、両者は衝突していただろうが、そうならないのがこの映画の新しさだろう。やや説明的すぎるセリフではあったが、石橋静河演じる、バイオリニストの女性が言っていた通り、これまで女性は男性たちの都合によって分断させられ、敵対関係に置かれてきた背景を踏まえ、1人の男性をめぐってもなお、2人はお互いの立場をさりげなく尊重する態度をとった。

 

それぞれが「穴」と「袋」から脱却するのに有用だったのは、お互いがそれまでも大切にしてきた友人との関係であった。主人公2人が熱っぽく結託して高良健吾をとっちめる、みたいなわかりやすさがないのもよかった。本来の敵は彼ではないのだから。

 

女性の自立、というと華々しい。しかし実際に、自分が依存せざるを得なかったものから手を離すのにはあらゆる困難がつきまとう。そこにある事情はどれもまったくもってキラキラしていない。かといって、ドロドロだけかというとそうでもない。女性が自立して生きることへの困難を見据えながらも、爽やかな希望を残すラストだった。

 

2021年3月4日(木)/痛みをともなうエトセトラ

人はそれなりの挫折を通らないと、自分を省みることができないものなのでしょうか。したの記事を読んで思ったことのひとつ。

 

cakes.mu

 

痛い目を見ないと人は変われないんでしょうかね。自分に関して言えば、長く勤めた会社の退職や、付き合っていた人の安い裏切り行為など、いくつか経験してきた「痛い目」が結果的には自分をマシな方に導いてくれたところがある。もし、そういうことを通過しないままでいたら、自分はいまよりもずっとクッソだったと思う。

 

しかし、この幡野さんや大熊さんのように、一度は自分の加害性に目を向けた経験のある(はずの)人であっても今回のような問題を起こすのだから、となると今後も「痛い目」を通してでないと自分を「マシ」に保てないのだろうか。そう思うとなかなか辛いものがある。痛みを伴う改革は、そう何度も経験したくない。ちょっとずつ微調節して、大きな「痛い目」を回避できるといいんだけど、そういうのはどうやったらできるのか。いつもいつも、自分で自分を微調整するなんてこと、できるんだろうか。そもそも、その物差しというのはどこにあるんだろう。

 

と、「痛い目」を恐れる一方で、やっぱり心のどこかで、自分が変わる機会を求めている気がしないでもない。人が出会って別れる映画に妙に心惹かれてしまうのも、その辺が関係していそう。言ってみれば、別れにカタルシスを覚えてしまっている。現実でも、フィクションでも。その辺りはなんかもう少し考えてみたい。なぜわたしは「別れ」が好きなのか。

 

あと、この人の連載に限らずに感じることだけど、多くの人生相談ものは、相談する/される関係が完全に上下になっていて、その世界観がやさしくない。悩みを相談する側が「弱者」みたいな扱いになってるのが、そもそもなんかちがう。相談される側は、言葉を繰るのが上手なだけな場合もある。相談は大喜利じゃないと思うんだけど。

 

そんなことを考えていたら、じゃあひとつのお悩みに対して、いろんな種類(?)の人たちが答えるような人生相談ものがあればいいじゃんと思ったんだけど、そういうのはもうありますか? ありそうですよね。ひとりの人に、たったひとつの正解を求めるのがよくない。みんなが思い思いのことを言って、そのバラバラのなかから、答えみたいなものを考えていくのがいいと思うんだけど、どうすか。

 

2021年3月2日(火)/夢のよう、っていうか実際夢だった

日曜のラジオは夢のように楽しかった。始まる前に司会の塚越さんが「誰かしらが必ず受け止めるんで、とにかく思ったことを発言してみてください」と言ってくれたり、倉本さんが「どんどん遠慮せずいっちゃって大丈夫ですよ」と背中を押してくれたり(あとラムネをくれたり)したので、振り返ると言葉足らずなとこも多かったけど、それでも思ったことを話すことができてよかった。スタッフの皆さんもいろいろとフォローしてくださりありがたかった。話したいことを受け止めてくれる場というのは、ものすごく貴重なものに感じられます。本当はそういう場があちこちにあるといいのに。

 

radiko.jp

他の出演者のみなさんの感想や考察、リスナーの方々からのメールがどれも興味深く、なかでも山本さんが指摘していた、フェミニズム本が登場しないという視点は自分にはぜんぜんなかったものだった。確かに、『82年生まれ、キム・ジヨン』は2018年に出ていて、その後もフェミニズムにまつわる本が多く出版されているので、本好きの絹がそれらを全く通ってないことはなさそう。西森さんがおっしゃっていた、「花束は日本版キム・ジヨンみたいな側面があるから、この映画の中にキム・ジヨンが出てこなくてよかった。出てきたら並列の存在になり得ないから」という指摘にも、ななななるほどー!となった。麦くんが属していた文化系コミュニティのホモソ加害も、ぼんやりとは感じていたけど、ここまではっきり認識できていなかった。社会に出ると性役割規範が強まる、という点に留まっていたなー。

 

あと、倉本さんが放送中に見つけた感想のなかに「もっと自分の体験を語ってほしい」というものがあった。趣味のあう人は恋愛対象になるのか、という話を振られたときに話せればよかったんだけど、なんか曖昧なことしか話せず後悔している。なので、とりあえずその一部をここに書いておきたい。ちなみに、放送中は話の流れにあうメールを探して紹介する、というミッション(?)もあり、これが思った以上にむずかしかった! だから、それをやりつつTwitterで感想を調べる倉本さんのマルチタスクっぷりはやばい。

 

というわけで自分の体験。最近まで忘れていたけど、割と「花束みたいな恋をした」に近いことを自分も経験していた。就活も終わってのびのびしていたころ、新宿かどこかのカフェバーでやっていたDJイベントで(なんでそんなんに行ったのか全く思い出せない)知り合った人と仲良くなったきっかけはまさに、趣味が合う(ような気がした)からだった。いま考えたら身の毛もよだつような話だけど、「えっ、『クワイエットルームへようこそ』観てるなんて、詳しいね!」みたいなことを言われた記憶があるが、この発言を受け入れられるのが若さなんだろうか。それで割とすんなり話が進んで付き合うことになったが、翌年春にその人は大学院に進学、わたしは就職をした。そのころは会社のことを頑張るのが楽しかったので、自分の価値観がどんどん会社寄りになっていき、「なんで電話に出ないの」とか言ってくるその人をめちゃくちゃ煙たく感じてしまうようになり、ほどなくして別れた。ほんの数ヶ月の付き合いだったし、その後いっさい連絡も取っていない。一度だけ、新宿のタワーレコードに女の子といるのを見かけたきりだ。

 

ラジオでも、自分と趣味が合いすぎる人は気持ち悪いと思ってしまうかも、と話したが、社会人になって以降、そしてつい最近までは、むしろ自分よりも文化的(?)な何かに詳しい人や実際に何かをしている側の人に惹かれる傾向があった。だから、絹がイベントプロデューサーのオダギリジョーに惹かれる気持ちがわかるのだ。これはかなり醜い話だが、いま振り返ると、自分「以上」の人を好きになるのは、憧れという綺麗な言葉に収まるものではなく、その人の築いてきたものを手っ取り早く自分のものにしたいという、恥ずかしいほどにやましい気持ちがなくはなかったような気がしている。最近その傾向が薄れてきたのは、つたないなりにも自分自身で地道にやってくしかないし、その方が実は楽しいと少しずつ思えるようになってきたからかもしれない。自分でやってこうと思えるようになりつつあり、そうなると今後どういう人に惹かれていくんだろう。まだわかっていない。

 

と自分語りはこの辺にしといて、あらためて今回のラジオ出演は本当に楽しかった。深夜ラジオを聴き始めた高校生のころから、曲紹介とリスナーはがき紹介は自分のひそかな夢だったので、それもうっかり叶ってしまった。しかもTBSラジオで。何か夢が実現したときに使いがちな「◯◯の頃の自分に教えてあげたい」みたいな構文はなぜか苦手に感じているけど、その構文に当てはまる気分にもなるのだった。

 

2021年2月28日(日)/感情をすり減らさない労働

日記でもあれこれ書いてきた『花束みたいな恋をした』についてラジオで話すことになった。あと数時間したらそのために家を出なくちゃならない。しかしそのあと数時間の過ごし方がわからない。ソワソワソワ。そんな時こそ日記を書いて気持ちを鎮めよう。本当ならラジオの予習的なことを、時間の許す限りやっておいた方がいいのだろうけど、知識的なことは他のゲストの方々に敵うはずがない。むしろそういう方々に色々伺うことを楽しむつもりでいこう。

 

昨日は、久しぶりにバーの店番をした。1月に入ってすぐに緊急事態宣言が出て、かれこれ2ヶ月お店を休業していた。バーなんてなくたって、人は死なない。だけど週に1〜2回、あの場所でたあいないおしゃべりをすることが、他の仕事や生活をするための調整弁になっていたことを、店番がない日々のなかで痛感した。

 

そんなことを考えていたちょうどその頃、水曜にお店に入っているいっちゃんがお店のグループラインに「店がないのに慣れてきたけどさみしい」と書き込んでいたので、「わたしも!」と乗っかり、その流れで昨日時間をくり上げして一緒に店番をすることになった。いっちゃんは人を思いやりながら、気持ちを素直に伝えることができる人で、そういうところにちょこちょこ助けられている。

 

バーカウンターに立つことはとても楽しみだったけど、しばらく音沙汰のないなかで、急にお店を開けたところでお客さんは来てくれるかなーと不安もあった。でも、いざ開けてみると満席の時間も多く、終始にぎやかな楽しい5時間だった。そのにぎやかさのなかには、決してポジティブなだけではないにぎやかさもあったけど、そういうことも込みで、何か足りなかったものが充填されていく気分になった。オーナーやほかの曜日担当の方々も来てくれて、お店がそこに存在することの意味の大きさを感じてしまった。

 

3/7に緊急事態宣言が明けてからも、飲食店のみ時短要請が続くという報道を見た。20時までの営業が21時までに変更になるとかなんとか。バーは、平日なんかは特に仕事帰りに寄るものだから、19時〜21時の営業では微妙すぎる。だからオーナーも、お店を再開するかどうか悩んでいるみたい。ワクチンが行き渡らない状況で規制を解いたら、そりゃまた感染が増えるのは目に見えている。だから、感染を考えたらどう考えても閉めておいた方がいいに決まってるんだけど、昨日開けてみて、自分にも膿が溜まっていたのを感じたし、お客さんもそれぞれにいろんな気持ちを抱えているようだった。

 

たまにバーで店番をすることについて、「よくそんな感情労働を……」という反応をもらうことがあるけど、自分はここであまり無理してまで人に合わせることをしないようにしているし、人から聞く話は自分の領域にないことであっても興味深いものも多く、むしろ話を聞くのは楽しい。バーカウンターのなかにいる自分がだれより店に助けられているのだけど、一見助けている風情を装えるのもまた、バーカウンターのなかにいるからこそのささやかな特権かもしれない。

2021年2月26日(金)/平成もアーカイブしてほしい

今日の『俺の家の話』、いつもにまして盛りだくさんですごかった! 見どころ多くて、その度に興奮させられて、おもしろすぎて疲れてしまった。22時からの最新回を見る前に、21時から前回をおさらいするのがルーチンになってるけど、今日の6話は2回観るだけじゃ足りないかもしれない。

 

この、同じものを何回も観るシステム(?)は、コロナによる個人的な変化のひとつです。いままではおもしろいものを何回も観るより、新しいものを観るのを優先していたんだけど、演劇がオンラインになったこと、その演劇をレポートするために複数回観たことがきっかけになって、演劇にかかわらず気になるものは何回も観る習慣ができました。

 

当たり前だけど、何回も観ると一回観たときより多くのことに気が付きます。逆にいうと、一回だと見落としが多すぎるのに気がついて、いままでなんてもったいないことをしていたのか……と作り手の人たちに申し訳ない気分にすらなったのでした。演劇が劇場で観られるようになったら、また数たくさん観たい派に戻っちゃう気もして、もったいないような。演劇にはリピート割はほぼないので、何度も観るのは金銭的にもむずかしいし、その一回性こそが本質って感じもあるんだけども。オンラインの演劇が一年でかなり発達したけど、以前のように劇場で演劇ができる環境が戻ってきた時どうなるんだろう。なんか、ハイブリッドな形態とかが生まれるんだろうか。完全にこっちの都合だけをいえば、劇場で観ておもしろかったものを、配信で少し安めにもう一回観られたらすごく良い。

 

話戻りますけど、今日の長瀬の歌のシーンは、生まれ持ったスター性、アイドル性が爆発していましたね。こんなに人を惹きつける才能のある人が、裏方になりたいと思ったのはなんでなんだろう。ジャニーズっていままでどういう組織で、いまどういう組織なんだろう。

 

SMAPの歌を聴きたいことがちょこちょこあって、なのにサブスクにもiTunesのストアにもないから、仕方なくYouTubeに上がってるのを聴いてる。SMAPが残してくれたたくさんの曲たちに気軽にアクセスできないなんて、日本の平成ががっぽり失われているようなものじゃないですか。SMAPのことを考えるとき、真っ先にあの不可解な謝罪映像を思い出してしまうのも悲しい。

 

そういえば今日、小室哲哉とKEIKOの離婚成立のニュースも流れていましたけど、こうやってひとつひとつ平成が終わっていくのか。令和発のポップカルチャーにも夢中になれたらいいのだけど、平成に生まれたものを引きずって生きていくような気もしている。平成のあれやこれやも、アーカイブとして残しておいてほしいものです。

2021年2月23日(火)/いまさらですけど花束雑感

今日花束を観たという人から連絡があり、その流れでお茶をして、その最中はとても楽しかったのに、そのあとになぜかやっぱり悲しい気分になってしまうのであった。悲しさというか不安に近く、自分の心の弱さが吹きさらしになってしまうような感じ。人によって着眼点がぜんぜんちがうので、話すたびにいろんな切り口が見えてきて興味深いのだけど。

 

もうこの映画については直接人と話もしたし、クラブハウスでいろんな人が話しているのを聞きもしたので、もはや3週間前に自分が観た直後真っ先にどう感じていたのかわからなくなりかけているのだけど、先日、会社や社会への過剰適応を切り口にして話しているのを聞いてすごく納得するところがあった。わたしがこの映画について考えると不安な気持ちになることとリンクしているようにも思う。

 

いまはふらふらしているので信じてもらいにくいのだけど、自分の20代を振り返るとほとんど社会に適応することだけを考えていたと言ってもいいほど、社会、というよりもっと言うと会社に居場所を作ろうと頑張っていた。会社に入る前の段階、就活を前にした時も、口では嫌だと言いつつ、わりと前向きな気持ちですらあったのを覚えている。いい加減経済的に自立したかったし、「社会に恩返ししたい」みたいな殊勝な思いすらあったほど。いま思えば不気味なくらい健気だが、反抗期を経ないまま大人と呼ばれる年齢になってしまったことに関係する気がしている。なお、わたしの反抗期は35歳になってやってきて、いま終わりかけ。

 

自分が何に向いているのか、何ができるのかがわからなすぎたので、幅広い業種の会社を受け、内定をもらったなかでも、そこまで無理せず働けそうだと思った会社に入り、その会社のルールに従い、そのなかを流れる空気に染まり、あらゆるものを明け渡していった。と言うと主体的にそうしたようだが、実際はもうそうせざるを得なかったという感じに近い。就活以降に染み付いた適応癖はいまでも抜けきらない部分がある。会社に適応することで自分をすり減らすのはもうたくさんだという思いが強いので、結果としていまはふらふらしているのだが、これはこれで寄るべなく辛く、しかもこの辛さはなかなか理解されにくい。

 

それはともかく、じゃあなんで自分をすり減らしてまで適応しようと頑張っていたのかといえば、結局のところ自分に自信がないというところに行きついてしまう。自分が感じたこと、思ったことに自信が持てない。それであればもう、社会の側、会社の側に合わせて生きた方が不安を感じなくて済む部分がある。(あくまで部分なんだけど)

 

そして、自分が感じたこと、思ったことに自信が持てないと言うのは、いまだにそうなのだ。「正しさ」が吹き荒れるこの頃はなおさらそう思ってしまう。何かを思っても、素早く頭のなかでツッコミが入る。自分の思いを自分のなかですら大切にできない。しかし、「正しさ」ですべて裁かれる風潮があるなかで、何かを「好き」と言う気持ちは自分を守るよすがになりうる。だから、映画のなかの2人も映画や小説や漫画を好きだったのだと思うのだけど、作中ではそれらが単なるアイテムと化しているのが気になった。というか、単なるアイテムとしてしか描かれない点もまた自分の傷つきポイントなのかも。それどころか、就職後の麦が、それまで好きだったものを好きだと思えず、パズドラ自己啓発本にしか関心を持てなくなってしまう描写もある。好きなものは心の防波堤だと思っていたいので、もしここまで気持ちが社会に侵食されているとしたらかなり悲しいし、描き手側の視線に「サブカル」のようなものを心のよすがにするのは幼稚な人間のやること、と指摘されたように感じたのかもしれない。自分の被害者意識が強すぎるんだろうか。

 

なんの話だったかよくわからなくなってきた。でも今日話してみて、少しずつ整理がついてきたようにも思う。わたしが10歳若いときに観ても、10歳年をとってから観ても、いまとは別の思いを持ちそうだ。せめて10年後に振り返った時に「あんときはやけに傷ついたな」と、もう少し余裕ができているといいのだけど。