2021年4月4日(日)/派遣とフリーランス兼業の現状と悩み

自分がこのところ起きているときにしてることといえば、仕事、準仕事(仕事につながる何かを読んだり見たり)、SNSTVerradiko&U-NEXT、オートミール、コンビニで売ってるスタバのチャイ、最小限の家事、そのくらい。

 

去年の12月から週3日働きに出て、それ以外は個人で受けた仕事をしている。どちらも書いたり編集したりの類の仕事で、それ自体は望んでやっていることである。日々自分の能力不足に直面しているが、仕事にできてよかったと思っている。しかし、問題は仕事量の調整である。つい最近までは、個人の仕事がそんなになかったため、暇で、お金が足りないなぁと思っていた。それがありがたいことに仕事が増え、すぐにぱつぱつになってしまった。お金は、初任給くらいには届きそう。なぜ仕事が増えたかといえば、別に自分の能力がいきなり上がったわけではなく、知り合いがたまたま仕事を発注する側の人になったからだ。仕事が少ない時、このように偶然仕事が増えるということを知っていたら、そんなにジェラすることもなかったのに。とはいえ、偶然増えるということは、逆もまた然りで、すぐにまた暇でお金が足りない期がやってくる。忙しい時とそうでない時の差が大きい。そう考えると、いただける仕事はすべて受けておきたくなり、仕事以外の時間がどんどん削られていく。

 

一つは、派遣で行ってる週3日の仕事を辞めるという選択肢がある。フリーランスの仕事だけで毎月初任給程度に稼げるようになったらそうしたいと思っていた。しかし、別の問題がある。人と話す機会がグッと減ってしまうことだ。週3の仕事の方は、記事を作る業務にも関わらず、なぜか出社しなければならず、最初は不満を持っていた。しかし、4ヶ月通ってみて気持ちが変わってきた。同僚の方々とランチに行ったり、仕事中に色々教えてもらったり、そういう時間が自分の心のこわばりをほぐしている。もちろん通いならではのストレスもある。納得がいかないこともある。しかしそれでも、人に会うことで保たれている何かがある。

 

逆に、派遣の方の日数を増やす、または他に正社員や契約社員として雇ってくれる会社を見つけ、個人で仕事を受けないという選択肢もあり得るが、それはそれで違う。今までの経験を振り返り、一つのところに勤めると、その会社なり団体なりに「捨てられないようにせねば」という気持ちが働く。そしてそれが何より自分を追い詰める。安定した身分の代わりにずっと「申し訳なさ」がつきまとい、そのせいで無駄に頑張ろうとしてしまう。そんなふうに思わず、堂々としていればいいのだろうが、これは今のところわかっている自分の性格であり、性格を捻じ曲げて適応するよりは、性格に合わせて働き方を調整する方がいいと判断している。それに、私がどう思おうが、どうがんばろうが、会社の側には別の論理があるので、切られる時は切られる。それならば、やはりいろんな人たち、いろんな会社から仕事を発注してもらう方がいい。

 

こないだ久々実際に会って打ち合わせしたフリーランスの方が、「環境が変わって、家に人がいる状態だと、仕事の合間にちょっとした雑談ができて、そのせいか仕事が前よりはかどる」と言っていた。ああ、そうだよなぁあああと思った。

 

家に人がいるのはうらやましいが、誰かとそうなる予定が特にない。友だちとルームシェアって感じでもないし、誰か恋愛対象になる人と一緒に住むことも考えにくい。マッチングアプリとかやる気力なんてまずない。そもそも恋愛はそれ自体でまた別のストレスである。何かで読んだけど、よいものであれ悪いものであれ、変化自体ストレスの要因になるらしい。人生にはどうしたって変化が訪れるもので、自分の人生にも、どうしようもなく誰かといたい、って気分になるときがまたあるのかもしれない。しかし、自分でその機会を望みに行くほどの気力と時間、あるいは切迫した何かがない。

 

雑談については、週に2日バーのバイトをして賄えていた。いまは店自体が休業していて、その時間がなくなってしまったことも、暮らしのバランスが悪い原因だ。晴れて店が通常営業に戻ったとしても、永劫そこにあり続ける保証はない。雑談を日常的に得るための他の手段が必要。

 

というわけでいま思う一番の理想は、仕事はすべてフリーランス(業務委託含む)で受ける体制、かつ、フリーランスの仲間数人で一緒にシェアオフィスを借りる、です。って、前からそんなことを思っていた気もするけど、その思いが強化されたという感じ。フリーランスの人たちとのゆるいつながりを増やしたいというのには他の理由もあるのだけど、それはまた今度書いてみたい。どれもこれも、書いたから何ってわけでもないけど、希望は自分の外に出しておいた方がいい。というわけで仕事に戻ります。

2021年4月1日(木)/退職エントリ不作の年だった/『ミナリ』観た

昨日はFBに退職エントリが上がるのを楽しみにしていたけど、一個も見当たらなかった。退職エントリ自体が廃れたのか、自分の知り合いに変化がなかったのか。だいたい似たようなこと(歯切れの悪い退職理由、前職の同僚への感謝など)しか書いてないものだとしても、知ってる人の仕事の変化を見て、ほうほうと思いたい。

 

今日は、珍しくファーストデーに映画が観られるということで、『ミナリ』を観てきた。1980年代(パンフ読むまで時代がわからなかった)に、韓国からアメリカに渡った家族の話。

 

序盤にあるシーンで、ヒヨコの雄雌を分ける作業の休憩中、雄のヒヨコがまとめて廃棄されることを、父親が息子に教えると、息子は「なんで雄は要らないの?」と聞き返す。「雄は食べても美味しくないし、子どもも産めないから役に立たない。だから僕らは役に立つことをしないといけないんだ」と教える。これが、この映画のひとつの肝だろう。そういう考えが、「家族のためを思って」といいながら、家族の意見を聞こうともしない姿勢につながる。しかし、父は「黙っていたら自分は役立たず」と強迫観念的に思ってしまっているのだから、家族のためと言いながらも、実際は社会的に成功して、自分が「役に立つ」証明をしないといられないんだろうなと思った。

 

そのほかにも気になるポイントがあって、もうちょっと『ミナリ』のことを書きたいんだけど、眠くなってきたらまた今度書くかもしれないし書かないかもしれない。

 

今月は、今まで以上にゆるめの内容を、こまめに更新して行けたらなと思ってる。割とやることが多い月になりそうで、だからこそこまめにお掃除していきたいということです。

2021年3月26日(金)/古けりゃいいってわけでもないけど

心の澱を排出するために日記を書いている。今週はまだ一度も書けていなかったから、きっと心の底には澱が溜まっている。自覚する前に、ちょこちょこと掃除するのが理想です。

 

心の澱を排出する他の手段に、人と他愛なくおしゃべりすることが挙げられるが、仕事以外は特に誰ともおしゃべりせず、連日店の前まで行った立ち飲みも、定休&混雑で入れなかった。遊びが足りない。配信とかTVerを見たりラジオを聞いたりはしてるけど、もっともっとどうでもいいことがしたい。別におもしろくもない、なんでもないことをしたい。

 

しいて言えば、今週自分で髪を染めてみたのが、いちばんいい感じにどうでもよく、楽しい時間だった。

 

会社で目の前に座るMさんの毛先が青く染まっていたので、「え、めっちゃいいですね!」と興味津々で聞いてみたら、自分で染めたと。送ってくれたAmazonのリンクをみてみたら、韓国製の可愛いトリートメントで、染めて8日間だけ色がキープされるものらしく、しかし1,100円って安すぎてちょっといぶかしい……けど評価を見る限り悪くなさそうだったので即ピンクを買って、翌日届いた。受け取るや否や試してみたら、染まるには染まったけど、もっともっとピンクにしたい。ちょっと色を入れたことでかえって欲が高まった。そのうち美容室に行くしかない。

 

しかしなにより、髪色を8日間だけ変える1,100円のトリートメントの情報交換そのものが、17歳的で楽しかった。実際の自分の17歳を振り返ると、たしか髪を染めることには興味がなく、うっかり切りすぎた髪の毛をどうしたら早く伸ばせるかの方が切実な問題だった。「2001」と言うシャンプーを使えばいいらしいと雑誌の広告で知って買ったか、お金がなかったからその類似品で我慢したか、そこははっきり覚えていない。

 

あと今週よかったのは、3月31日で50年間の営業を終えるローズガーデンに行けたこと。数回しか行ったことのない私の側が、妙に感傷的な気分なのとは対照的に、マスター(と思われるおじさん)も奥さん(と思われるおばさん)も、昼から飲んでる常連のおじさんたちも、いつも通りなのがよかった。ちょっと考えたら、閉店数日前からそんな物思いに浸ってる方が変なんだけど。味つけだけじゃなく、空間そのものにも心底落ち着く何かがある。閉店後は娘夫婦が中華料理店を始めるらしいが、あまり大幅に改装しないで欲しい。勝手な要望だけども。

 

そういえば、南口の中野屋も3月31日に閉まる。昼は立ち食いそば、夜は立ち飲みのお店で、こちらもまた古い。どこかに向かう前にさっと何かを食べておきたいけど駅ナカのBECKSではなんとなく味けないなって気分の時、たまにそばを食べに行っていた。正直言って美味しいかというとそうでもなく、でも無愛想なおじいさんがそばを茹でてる感じや、ガサガサとした音でAMラジオがかかってるのがよかった。アザミやブリックも閉まったし、中野の古いお店がどんどんなくなっていく。中野サンプラザも数年したら解体される。長く続くお店や建物を求める人は、どこに住めばいいんだろうな。

 

 

2021年3月21日(日)/うしろめたさが俺の武器だ!

買った卵を持ってった袋に入れようとしたら手を滑らせて落としちゃって、うわ〜と思うが先か、レジの店員さんがすかさず売り場まで走って、なんとそのまま新しい卵と交換してくれた!その親切心(あるいはレギュレーション)にありがたさと申し訳なさで猫背になっちゃったんだけど、これに似たことが仕事でもいくつかあった。人にお気遣いいただいてしまった時の、この申し訳なさ、いたたまれなさってなんなんだろう。「ありがとう、サイコー!」みたいにアッパーな感じで返答した方が、相手も気分がいいものかなと毎度考えてしまう。だけど、そうできない性格に助けられてきた気もする。

 

書きながらどうでもいいことを思い出した。大学生だったか就職したてだったか、帰省して父と外食した時、上司に奢ってもらう時の財布のチラ見せ具合などの「お作法」を練習したことがあった。「いやそれだら財布しまうの早いわ〜」(北海道訛り)とかヤイノヤイノやった覚えがあるけど、その時教わった「申し訳なさそうな演技」をいまだにやってるのか?

 

しかしな、年齢的にはいい加減自分が「施す」側のはずが、なんつーかいつも「施される」側にいる気がしてかたじけないわ。なんだろうね、人に生かされてるとか言ったら安直ですけど、本当にそうだな。

 

っていうかあれだな、私なんぞは若いころよりもプライドがなくなってきてるから、その意味でいまは以前よりは「施し」を素直に受けられるようになってるかも。もっと気持ちが張り詰めていた時のことを考えると、やさしさをやさしさだと認識できなかった時期すらあったから。体調を気遣われるの腹立つ、弱いやつ扱いするなし、みたいな。せっかく差し伸べてくれてた手を「自分でできますんで!」みたいにして邪険に振り払ったことがたくさんありそう。いまにして思うと、弱さに引きずられないよう必死だったんだけど、「かわいそう」だと思われたくない気持ちが異常に強かったのは若さのせいなのか? 

 

最近になってようやく、「かわいそう」だと思われていいというか、虚勢を張らない良さみたいなものを実感していて、思えばこれもまた周りの人たちのおかげだなー。なんなんだろう、今日は周りの人たちへの感謝が止まらない。もしや、この感覚こそ子ども期の終わりを告げてる?

 

2021年3月20日(土)/過疎には過疎のよさがある

苦行のような書き起こしが終わった。三日間まるまるかけてようやく終わった。大変だった。

 

っていうのを本当はネットの大広場ツイッターに書きたかったけど自重した。仕事をお願いしてくれた人は、おそらく私のツイッターを見ていないので気にしすぎだろうけど、誰がどんな気持ちで見てるかわからないので。ブログも公開してるから同じっちゃ同じでも、ツイッターほどひと気に晒されていないので多少油断していたい。過疎には過疎のよさがある。あと、「苦行」のニュアンスも、ツイッターに書くとなんか歪む。

 

自分は人を傷つけたくない以上に、自分が傷つきたくないというエゴのために穏当を心がけているけど、その一方、例えばツイッターでウン十万フォロワーとかいて、しかも本人だとわかる状態の人が、仕事関係の人にされた嫌なことを堂々と書いていて、それにたくさんの反応がついているのを見ると、毎度ギョッとなる。フォローしてない私のところにまで回ってくるんだから、関係者が見ないことはないと思う。そういうのも見越した上で書くんだろうなきっと。その人の口ぶりはいつも被害者のようで、しかし見方によってはもはやある種加害者だろうと思ってしまう。フォロワーがウン十万人いることは、今の世の中、すでに一つの力といえる。自分の加害性に自覚的で、それをコントロールできる人の方が「売れる」のかな。私にはやっぱり「加害者」になる覚悟みたいなものがまだ足りないんだとたまに思う。「加害者」って言葉が適しているのかはわからないけど、生きている限り誰かの足を踏まざるを得ない中で、その加害性を背負う、みたいな、そういう話。または、あれらの仕事関係者グチは全部共感を生みそうなウソだったりして。

 

まーそんなことは置いておいて。とりあえず終わってよかった。一瞬ぼんやりしたい。散歩でも行くか。明日で終わっちゃう千葉正也展もできれば行きたい。15時から仕事があるけど、まともな時間に起きれば間に合う。でも起きる自信ないなー。

 

2021年3月16日(火)/月火水のルーチン

週3通っている会社のフリースペースには、ゆりかごのようなものがあり、お昼はだいたいそこにいる。いまも揺られながら書いている。

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↑これじゃないけどこんな感じ。今日入ったゆりかごはクッションの配置がよいので、ふかふかに包まれて気持ちいい。

 

そういえば、通勤で、新宿から相鉄線に乗り入れる電車に乗ってるんだけど、山手線でも行ける場所なのにわざわざ相鉄線に乗るのは、その電車が始発で必ず座れるからだった。のに、昨日から様子がおかしい。ダイヤが乱れたのかと思ったけど、2日連続は変だと思って調べたら、先週土曜にダイヤの改正があったみたい。誰も悪くないけど、朝からイラついた。朝の電車で目を閉じる10分間が好きだったのに。

 

会社に着いて、仕事を始める前に朝日新聞デジタルで気になる記事を読む。今日気になったのは、

digital.asahi.com

digital.asahi.com

上の記事は、政治家の会食をめぐる問題に関連したもの。脱サラして漁師をやるため地元青森に戻った男性が、村社会ならではの慣習に苦しみ、新しいビジネスを始めるのに苦労したが、いまはそこを脱してのびのびやってると言う話。映画『あのこは貴族』のなかで、地方の富山であれ、東京の真ん中であれ、家至上主義の価値観がある限り、そこにある文化は大きく変わらない、みたいな台詞があって、そのことを思い出した。

 

下の記事は、「御用ジャーナリスト」を朝日新聞の記者がインタビューした記事。最初わたしはこの人のことを何にも知らなかったけど、朝のワイドショーに出てくると、声もしゃべり方も顔もぜんぶうそ、なんか気持ち悪いと思ってチャンネルを変えるようになった。この、感覚的なものってなんなんだろう。わたしの実家は別にリベラルではなかったし、父が仕事の付き合いでたまに聖教新聞をとってたりしてて(実家はたしか浄土宗)、なんというか適当だった。だとすると、この「気持ち悪い」という感覚は、割と最近になってできたセンサーによるものなんだろうか。

 

ともかく、普段なら「こんなやつ」の話を読もうとは思わないんだけど、異なる立場の人が話しているものを読むのはおもしろい。記事もおもしろかった。詳しく書くのはめんどいけど、あとで足すかも。

 

同じ感じで、石戸諭さんの書いた百田尚樹本も気になってるのだけど、まだ買えてもない。やっぱり根本的に「きもい」と思ってしまっているので、読むのには多少体力がいる。他人に対する快/不快って、ほんとのところなにに由来するんだろうなぁ。

 

2021年3月14日(日)/隣にいてほしい

相変わらず気忙しい。日記を書くよりも進めるべきことがあるがしかし! 一つのことを終えて次の作業に移るあいだに日記を書くと、頭の切り替えにちょうどいいんです。って誰に対して言い訳してるんだかよくわかりませんけど。

 

ところで今日は池袋でもくもく読書会をしてきた。何人かで集まって、ただもくもくと読書をする会です。前にもくもく会をしたいと思いTwitterで呼びかけ、そのとき実際に来てくださった方に今回は直接お声がけし、池袋の喫茶店で落ち合って、おのおの本を読み進めた。Twitterで何か書いて、いいねとかRTとかしてくれることはあっても、実際に行動を起こしてもらえることはなかなかないので、とてもうれしい。そういう方がひとりいてくれるだけで、物事が前に進んでいく。SNSというのはあくまで何かのきっかけに過ぎないので。

 

そんで、これも気忙しくなる前に計画していたもので、しかし計画したからには実行したい。だっていくら気忙しくても、2〜3時間は平気でSNSTVerに充てるのがわたしなのだから、だとしたらその時間を読書に充てたい。『3行で撃つ』を読んで、本を読むぞー!と猛っていた気持ちがどっかに行ってしまっていたので、己を戒めたいわけです。

 

で、今日は、半分まで読んでいたヴィルジニー・デパント『キングコング・セオリー』を読み終えて、昨日読み始めた外山恒一『政治活動入門』を少しだけ読み進めた。『キングコング・セオリー』を読んだら、去年松本人志が、一部の飲食業の人たちが雇用調整助成金支給の対象外になった件で、「水商売のホステスさんが休んだからといって、普段のもらっている給料をわれわれの税金では俺はゴメン。払いたくないわ」と発言した理由がわかった気がした。男性は自分の欲望を忌み嫌っておかないといけないらしい。ポルノに対する考察に納得する部分が多かったし、他の章もパシャパシャと写真に撮っておいた。引用したい箇所がたーくさんあるけど、また今度、って言ってやらなそ〜。ジェンダー系の本は次から次から気になるものがどんどん出ていて、なかでも信田さよ子さんの新刊『家族と国家は共謀する』を読みたいがまだ買えてもいない。

 

積読肯定派の意見もわかるけど、私自身は読むのが遅いので、あまりにも買ったのに読んでない本が増えると苦しくなってくる。誰かと一緒に本を読むための時間を区切って作り出し、読み進めていくのがよさそう。隣に本を読む人がいると、こちらも読む気持ちになれてほんといい。もくもく会メンバーは随時募集しています。新宿とか池袋とか、同じ場所に集まって、同じ時間に本を読むだけです。直接の知り合いの方で、興味ある人がいたら連絡ください。

 

2021年3月12日(金)/イマジナリー昭和の食卓

身支度中にラジオビバリー昼ズをつけてみたら、昭和のいいところだけ抽出したかのようなユートピア。わちゃわちゃしてて、これはなんだかmyイマジナリー昭和の食卓。みんなが言いたいこと言って、勝手にモノマネして、声が被りまくってるけど気にしないあの雰囲気、すごく和む。自我が溶けていきそう。『俺の家の話』の食卓風景も好き。大勢でワーワー言いながら食卓を囲むの憧れる。

 

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ところでこのところ気忙しい。なんとなく「忙しい」って言葉を使いたくない。せめて気忙しいと言いたい。個人でやってる仕事は、なるべく心のないことをやらないようにしたい。愛には愛で感じ合おうよ精神でいたい。しかしそうすると時間がかかる。ちゃんと考えようとすると、それなりに時間がかかる。たぶんわたしはナイーブすぎるのだろうが、見ようによっては短所になる部分をせめて自分は無碍にしないまま、生活が成り立つ仕事量をクリアできるようになりたい。あとあれだ、ちゃんとやろうと思い詰めてできなくなるパターンもあった。これがいちばんよくない! 

 

日記も書きたい。空いた時間にTVerでお笑い見るのも楽しいけど、受け身な遊びより、めんどくさい気持ちをおしてでも、自分で主体性を持って何かをしたほうが満足感が得られる。ジョギングとか筋トレもそう。始める前は気が重いのに、いざ始めると気が軽くなる。寝る前のシャワーもそう。なんでもそう。めんどうなことほどやったほうがいいんだろうな。

 

昨日遠隔で話した友だちは、ポッドキャストをやるのが健康にいいと言っていた。しゃべってみることで、自分のコンディションを把握できるらしい。いろんな友だちに自分なりの健康法を聞きたい。

 

健康で思い出したけど、膝が痛くなってきて、1週間くらいスクワットをサボっている。裸足でフローリングの上でやってるのがよくないのかも。ジムに通うまでもないけど、スクワットの正しい姿勢を学びたい場合はどうしたらいいんだろう。膝痛いのを言い訳にして、せっかく4ヶ月真面目にやってきた習慣が途絶えてしまいそう。しかし、最近飽きてきていたのも事実で、体が期待に応えて膝を壊しにいってたのかも。わたしの体はそういう都合のいいことをしがち。とりあえず、お靴を履いて再開してみようかなぁ。

 

2021年3月9日(火)/大河の一滴ですばい

昨日からGUで吸水ショーツを売り始めたと知って、帰りにいそいそとビックロに寄ったけれど、ほとんど売り切れていたし、わたし以外にも店員に問い合わせてる人がいて波を感じた。これまで出ていた吸水ショーツは、大体5,000円以上していたので(たしか)気軽には手を出せなかったけど、1,490円なら是非試してみたい。会社でいまやってる仕事にも関連していたので、このニュースをSlackで話題に出してみたら、「ナプキンを買えない貧困層の問題解決にもなりますね」という返答があって、何もまちがってはいない、だけど貧困層という言葉に遠い響きを感じ、前に千鳥の番組でノブが「貧乏」と言ったときに大悟がすかさず「貧乏って言うな、せめて貧しいとかって言え」みたいに訂正していたのを思い出した。大悟がいちばんモテる。去年のテレビ千鳥のブラジャー選ぶ企画もよかった。

 

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この記事がおもしろかった。

www.businessinsider.jp

稲田朋美といえば、いかにも名誉男性な女性議員の代表格みたいに言われていたし、そう思っていたので(しかし何故そう思っていたかよく覚えていないので、わたしのような民衆というのはずいぶん適当なモノよ)、最近「稲田朋美が変わった」的なニュースを見ても、またまた〜と流していた。でも、この浜田敬子さんによるインタビューは、そういう世間の疑念を念頭に置いて、稲田さんが考えを改めたきっかけについて切り込んでいた。

—— 稲田さんはこれまで安倍前首相の「秘蔵っ子」と言われ、保守中の保守のイメージが強かったです。クオータ制(女性へ一定数議席を割り当てる制度)にも、選択的夫婦別姓にも消極的でした。それがこの1、2年女性政策に非常に熱心になり、「変節」とも報じられています。防衛大臣の時の経験が自分を変えた、とおっしゃっていますが。

防衛大臣をやって私はペシャンコになったので。そこで弱い立場の人、自民党ではまずメインテーマになることはないところにに関心を持つようになりました。

—— 自民党内の女性議員比率は1割程度。それまではマイノリティでつらい思いをした経験はなかったんですか。

なかったんです。今から考えるとおかしかったなと思うぐらい、行革担当大臣や政調会長防衛大臣と順調過ぎたんです。でも、その中で1年間の防衛大臣時代は非常につらかった。自信もなくし、弱い立場の人たちの気持ちが自分のことのようになってしまったんです

—— 防衛大臣時代は南スーダン陸上自衛隊「日報隠蔽問題」などもあって批判されましたが、それ以外に女性の大臣ということでのつらさはありましたか。

スカート丈が短いとかイヤリングが揺れているとか服装への批判はこたえましたね。とにかく毎日週刊誌の記者が家の前に立っていて、毎週月曜日になると週刊誌からファックスが来て、何時何分から国会で寝ていたとか。

そういえば、自分が「なんなんだこの人」と思ったのもまさに防衛大臣だった頃の報道から受けた印象なんだと思う。そう考えると、その手の報道にあった偏見のまなざしを疑いなく受け入れてしまっていたんだろう。誰かのフィルターを通した報道でしか政治家を知る機会がないけれど、実際のところその人がそのポジションにいたことで成し遂げられたこと/成し遂げられなかったことをフラットに知る機会もほしい。

—— 女性で政界でポジションを上げていくと、発言の一つひとつが男性以上に批判にさらされるという実感はありましたか?

あるところまでは応援されるけど、ある一線を超えると急に批判が多くなると感じました。その一線はやはり大臣なのかなと。まだ数が少ないがゆえに注目され、批判の対象にもなる。これが女性閣僚が4割ぐらいなれば、もっと違ってくると思います。

このあたりも気になる。卑近な例ですみませんけど、以前の職場、役職が変わった瞬間自分に対する風当たりがド強くなった。それは最初の会社を辞めるに至るひとつの大きな理由だったけど、稲田さんはあれやこれやを経てもなお政治家を続けるところがすごい。彼女の政策をよく知らないけど、まず精神力がすごい。

 

この記事はそのあとも、変化した稲田さんの考えと自分の支持団体の価値観のずれにまだ折り合いがついていないこと、それまでコアな支持層だった保守の人たちがどんどん離れていって、女性の支持者がふんわりと増えてきてはいるもののいままさに過渡期でしんどいぜ、って言う話なんかが聞き取られていて、残される意味のあるインタビューという感じだった。

 

GUの吸水ショーツも、稲田朋美インタビューも、国際女性デーだった昨日発表されたもの。数年前までの自分は「女性」という括りに入れられることすら無意識に心が拒否ってたことを考えると、世の流れのおかげで自分もずいぶん変わった。自分も世の中も、10年経ったらまた全然ちがうことを考えてるんだろうな。わしゃ大河の一滴ですばい。

 

2021年3月7日(日)/ローズガーデンが3月末に閉店する

TVerで昨日の『その女、ジルバ』で観ていたら、マスターが作った朝ごはんがなんとも美味しそうだった。仕事しながら思い出して、もう一度TVerを開いてスクショしてみたら、

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たしかに美味しそうではあるんだけど、最初に観たときに感じたものとどうもズレがある。この朝ごはんそのものよりも、マスターがこの朝食を出してくれた状況にうらやましさを感じていたのかもしれない。ドラマでは、マスターのバーで主人公が働いているわけだけど、普段のわたしたちの生活を考えたとき、朝ごはんを作ってくれる関係というのはなかなかに親密。自分で作るご飯が嫌いなわけではないにせよ、誰かが自分のために朝ごはんを作ってくれることを想像すると、無茶苦茶甘やかな気分になる。

 

とはいえ、そんな関係性はいまないのだから、せめて中野の喫茶店でそれらしきごはんを食べようと思い立ち、去年の秋に存在を知った洋食屋さんに向かってみたら、今日は日曜だからお休みで、しかも張り紙が。

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今月末で閉店するという報せだった。そのあとは娘夫婦が中華料理店を始めると言う。残念で仕方ないが、せめて事前に知ることができてよかったとも思う。このお店の向かいにあった、老舗バーのブリックは、去年の緊急事態宣言中に店を休業したまま、一度もお店を再開することなく閉店してしまった。だから今回は、事前に知れただけまだいいのだ。あの100点満点のハンバーグを食べ納めできる。

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去年10月に初めて食べた時の、100点満点ハンバーグ

まだ2回しか行ってないわたしに閉店を悲しがる権利があるのか?とも思うけど、やっぱり悲しい。残念だと思う気持ちを、ほかの人と比べる必要もないのに、ついそういうことを考えてしまうよね。ああ、味を記憶できたらいいのに。そしたら自分で再現できるかもしれない。でも、マスターの朝ごはんと一緒で、食べ物そのものだけの問題じゃないんだよな。あのお店が年月を積み重ねてきた空間で食べたから、余計美味しかったんだと思うんだよな。