STOP神格化(そして健康に目を向ける)

『韓国フェミニズムと私たち』という本のなかに、「個人に対する神格化を警戒しましょう」という一文を見つけた。いまから書くことは、この一文をフックにしてわたしが思い出したことやここ最近考えていることなので、この本に載っている文章の意図するものとはいったん離れてしまうのだけど、離れたのちにどこかでつながるような気もする。

 

なにを思い出したか、順不同に書いてみる。

 

・これはわりと最近の話。地下アイドルとして長年活動したのち卒業された女性とお話しする機会があった。なぜアイドルを辞めたのかという質問に、彼女は「人間に戻りたかったから」と答えていた。

 

・これは数年前の話。京都の本屋・誠光社店主の堀部篤史さんが、トークイベント中に司会の方から「誠光社はいろんなメディアに取り上げられているし、堀部さん自身にも数冊著書がある。お店に堀部さんファンの人が来るんじゃないですか?」と聞かれ、「ぼくはファンということばを安易に使うべきじゃないと思うんです。アントニオ猪木レベルの人に対してだけ使ってほしい。自分と他人のあいだに線を引いて、安全圏にいようとするのはよくない。」(意訳)と言っていた。

 

・これは自分の話。最初の会社に勤めているとき、年下の女性から「憧れです」みたいなことを言われることが何度かあった。うれしいとも恥ずかしいともちがう居心地の悪さを感じた。そういうことをわたしに告げた女の子たちは、数年経つとそろいもそろって「そんな人だと思っていませんでした」的な恨み節をぶつけ、なにかに失望したように去っていった。

 

他人に自分の理想をぶつけることは暴力的なことだ。自分自身、他人にも自分にもそういうことをしつづけてきたが、理想は理想でしかないし、そのギャップに苦しむのはけっこうあほくさいことなんじゃないかと思うようになった。だけど、理想なしに人は努力できるのだろうか、とも思う。あるいは、「努力」というものの考え方がそもそもちがっているのかもしれない。

 

先日とある本屋さんが「親子にせよ夫婦にせよ、人との関係は自分のなかのファンタジー100%から始まるけど、時間が経つにつれて現実の割合が高まっていく」ということを言っていて、いろいろなことがすとんと腑に落ちた。

 

親には親のファンタジーを。恋人には恋人のファンタジーを。ありもしない幻想を生身の人間に投影しつづけては勝手にいらだって失望して、つぎの投影先を見つけようとしてきた。

 

人間関係においてもそういうことを思うし、わたしが身を置いている出版や本屋の業界についても、最近似たようなことを思っている。というかいまいちばん書きたいのはそのことなのかも。だれかの犠牲のもとに成り立つ世界ってあっていいんだっけ。それって長くつづくんだっけ。すばらしさだけに目を向け、そのほかをないことにしていていいんだっけ。

 

昨日、知り合いの書店員さんがこんなツイートをしていた。

 

 

 実際に、書店員を辞めてほかの職業に転職する方が、周りにも増えてきている。だれかが「いまの時代に本屋さんをつづけることは、バンドをつづけるようなことだ」と言っていた。このあたりの話は思うことがいろいろあるけど、いろいろあるだけに書くのがむずかしいので別の機会にがんばって取り組んでみたい。

 

とにかく、メディアが「よい」とするものや、周囲の人が称賛するものだけに自分の価値観を預けてはいけないなと思う。なにであれ全ベットしないようにしていたい。対立する意見や自分の居場所をおびやかすような意見にも、耳をかたむけるつよさを持ちたい。

 

そんなことを思うと、自分の健康を保つことこそがその一歩な気がしてきて、最近は健康情報が気になって仕方ない。豆乳をせっせと飲んだり、友だちと安眠のための情報を交換したりしている。

 

人間は神じゃない。人間にはからだがあって、調子がよかったりわるかったりする。自分のからだに目を向けることが、まわりまわって、自分のそとの物事に対峙するためのいちばんの近道なんじゃないかなと思っている。

 

むりやり最初の話につなげると、フェミニズムは人間が人間らしくあるための考え方だと思う。「女だからこうあるべし」というのもある種の神格化というか、母性とかもその手の妄想で生身の人間をしばり付けているものだと思うし、そういうのが苦しさの原因だとしたら、やっぱりわたしたちにはファンタジーを捨てて現実をみすえるつよさが必要なんじゃないだろうか。

 

そんなわけで、まずは安眠。健康。よく眠れるというハンドクリームを買いに、ドラッグストアに行ってきます。