消えないで雑味

家で手を付け始めた慣れない仕事があまりに進まなくて、このままだと締め切りに間に合いそうにないので、仕方なく徒歩5分のところにあるコワーキングスペースに来ている。iPhoneは家に置き去りにした。

 

対策のため合間合間に座れない座席が設けられているけれど、意外と利用客自体は多い。現在の生活(いわゆるステイホーム)が始まってから、外出した先に思っていたよりも人が多かったときはかならず、わたしもワンオブゼムですけれどね、と心の中で付け足すようにしている。見知らぬ他人を勝手に断罪しないように気を付けたい。した瞬間、されてもいいということになるから。人にはそれぞれ事情がある。

 

コワーキングスペースではもちろん誰とも会話をしないわけだけれど、どういうわけか、すれ違ったり近くを通っただけで不快に感じてしまう人たちがいる。別に不衛生なわけではない。性別も関係ない。ちなみに、こうなる前には、どちらかというと快に感じる人の方が多かった。客層が少しずつ変化している。そしてその快/不快は自分だけが感じていることなのか、それとも意外とほかの人も同じように感じていることなのかは確かめるすべがない。

 

なかでも、理由が自分でもわからないけれど特に苦手な男性がいる。さっきお腹が空いて近くの松のやに行ったら、やけに気に障る、スプーンと皿のぶつかる音がして、振り返ったところその人だった。このことからも、もはや外見とかそういう問題じゃないことがわかる。

 

たまに外に買い物に行くと、前よりも他人の言動が気になるようになっている自分に気が付く。他人の存在なしに感情の起伏は生まれないものだなと思ったが、ドラマや映画や本をみたり読んだりして異常に感激してしまうことも増えた気がする。あと、好きな人たちと文字ベースとかでやりとりしていると、心底いいなと思って、なんかこう喜びが閾値を超えてて我ながら怖い、みたいなところがある。要は、心が敏感になってしまっていて、快であれ不快であれ、針が振れやすくなっているのだろう。

 

快ということでいうと、これは前から思っていたことだけど、さっきとは全く逆に、いわゆるパーソナルスペースに入ってきただけで「好き」と感じる人がいる。これも性別は関係ない。言葉になる前の、無数の要素を身体が勝手に感じ取っていて、言葉にするとそれが「好き」とかになるんだろうけど、じゃあ一体身体はその人のなにを受け取っているのかっていうのはよくわからない。そういう人たちと、のちに仲良くなれることがあると、だいたい家庭環境が似ていたり、好きなものの方向性が似ていたりするのだけど、ほんとうのところはよくわからないままだ。そしてその人たちはもしかしたら、わたしだけではなく、多くの人の「好き」を引き出しているのかもしれない。

 

昨日、仲良くないけどなぜかLINEを知っていて、距離感バグってるからむしろ嫌いだなと思ってる人からいきなり電話がかかってきた。そもそも、ぶしつけに電話をしてくること自体にも抵抗があるんだけど、これだって好きな相手からだったら大歓迎なわけなので、我ながら随分勝手なものだなとも思う。無視するのもあれかねと思って出たけど、やっぱりものすごく無神経で、「すみませんが、いましゃべりたくないので切りたいです」とやや声を震わせながら×ボタンを押した。たぶん普段なら、好きではないにせよもう少しは相手することも出来た気もするけど、自分のなかの中間領域、あそびの領域が極端に減っているのか、いきなり無理スイッチが発動した。

 

『ベルリンうわの空』という、ドイツ在住の香山哲さんという方のかいた漫画のなかに、「自分の好き嫌いがわかればわかるほど、自分というものがわかるようになり、生きやすくなる」(大意)という台詞があった。最近のわたしは猛烈な勢いで、好きと嫌いを仕分けるようになっていて、たしかにそうすると自分自身というものが浮かび上がり、暮らしが快適になってきているのを感じる。それなのに、ほんとうにそれでいいのかという気もしている。

 

先日ナイナイ岡村のラジオでの発言が糾弾されていて、その発言自体はかなり危ういものだし、そういう風に女性を人間として認識することの出来ない貧しさ、そういう価値観がまだまだマジョリティであることには苦しさを感じる。しかしだからといって岡村さんの全人格を否定はしないし、あとそういう問題発言はたぶん、いまの社会に無数にあるので、そこだけを切り取って個人攻撃することが本当に正しいのかどうか、自分にはまだわからないなと思った。無視することもできないし、しちゃいけないとは思うから、むずかしい。でも今みたいに、物事の本質はさておき、表向きの謝罪だけ済ますのって、事態を良い方には変えていかないよなぁとは思う。だからやっぱり対話が必要だと思うんだけど。

 

ネットを見ていると、話題になりやすいのって称賛or炎上の両極だから、そういうわかりやすすぎるものからは距離をとっておきたいと思っている一方で、いままさに自分の判断の仕方が二極化していることに気付いてハッとした。

 

どんなに好きな人にだって苦手と感じる部分はあるだろうし、どんなに苦手な人にだっていいところはある。そういう風に、自分のなかに中間領域を設けておかないと、どんどん狭量で身勝手な人間になってしまう気がする。でも、自分のことをこれまでないがしろにしていた部分も大きく、もしかしたらこれでちょうどいいのか、という思いもある。

 

コロナ後の社会がどうなるかはわからないけど、もともと進んでいたあらゆる二極化がさらに進んでしまうと、前より生きにくい社会になってしまう。抜け道探して楽しく暮らしていきたいけれど、まずは、自分自身のこころのなかの遊び場、公園みたいなところを失わないようにしたい。