2021年1月25日(月)/標的になって泥に飛び込んで

「起きたくない!!」と叫んでから、布団を出た。声に出すとちょっとだけスッとする。しかし心身ともにずんとしている。

 

業務上のやりとりは98%slackで、ほとんど会話のない職場にもかかわらず出社していること、リモート勤務を申し出たけど断られたことへの不満はさておき、周囲の人たちもほんとうは声を出して喋りたいらしい。人恋しさでジリジリきてるので、一緒にランチさせてもらったら、みるみる「症状」が改善された。出社"させられている"ことには不満があるけど、一方そのおかげで人と接することができてありがたいという面もあるみたい。トロ鯖定食がおいしかった。

 

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家に帰ってきてテレビをつけたらハートネットTV。車椅子の女性が、「『みんなちがってみんないい』って言葉は、無責任だと思う。結局それは自己責任論と変わらない」というようなことを言っていた。

 

自分もその手の「多様性」的な標語には違和感を持っている。だけど今更そんなこと言っても「逆張り」にしか思われそうにない。だから、どうしてそう思うのかをちゃんと言えるようになりたい。思いつくところから挙げてみると、そういうことを口に出す人から、人間の暗い部分に目を向けたくないような、つるっとして取り付く島がないような雰囲気を感じる。自分はむしろ人のいわゆる暗い部分にばかり惹かれがちで、それもそれで不健全だとは思う。

 

だけど、いわゆる多様性を掲げる人たちの発する、白っぽくて明るいオーラにどうしても馴染めない。その辺の自分の心情は、ゴールデン街の古い建物の隙間を通るとなぜかホッとすることや、90年代サブカルに惹かれることとつながっているだろう。『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』って本が気になっている。

 

きれいな標語で誤魔化さず、ちゃんと自分の手を汚し、暴力を振るいあいながら、人を理解したい。それはきっと「みんな違ってみんないい」なんて軽々しく言えない、違いからくる苦しみや不快さを伴う作業だろう。そんなことを言いながら、いまの自分は人から逃げるようになってしまっている。今年はもう少し元気になって、人とかかわるわずらわしさに悩みたい。