映画『すばらしき世界』

以前、ある芸人がこうつぶやいていた。

児童相談所の人員不足や介入強化の整備に使われるなら消費税80%になってもいい。そして過剰なくらいの権力を持った鬼の部隊つくろうよ。 そこまでしないとゴミ虫共の虐待は無くならない。

これを見て血の気が引いた。賞賛を示すリプライばかりがぶら下がっていて、さらに苦しくなった。

 

自分には虐待するしない以前に子どもがいない。自分のことを言われたわけでもないのに辛くなったのは、こういう発想こそが社会から虐待がなくならない理由だと感じたからだ。「悪い」ことをするのは、自分のような「よい」人間とは異なる奴らだ。「悪い」人間は「ゴミ虫」なので、「よい」人間の社会を汚してはならない。だから罰して排除すべきだ、と。そういう考え方が、すでに追い詰められた人をさらに追い詰める。

 

このツイートを思い出したきっかけは、映画『すばらしき世界』である。

 

映画の主人公は、人生の多くを刑務所の中で過ごした男、三上正夫。人生で6度目、13年の刑期を終え、旭川刑務所を出るシーンから物語が始まる。三上はこれまで、唯一自分を受け入れたヤクザの世界に身を置き、仕事の名の下に犯罪に手を染めては、刑務所に逆戻りしていた。13年前の事件は、そのループから抜け出そうとした矢先の出来事だった。東京に向かう電車のなかで「今度こそカタギぞ」と意気込むが、行政の問題や周囲の偏見など、男の社会復帰を阻む壁がいくつも現れる。

 

しかし、三上にヤクザ以外の味方がまったくいないわけではない。 身許引受人の弁護士は、いかにもあたたかい。弁護士の奥さんは出所祝いにすき焼きを振る舞い、三上はその心遣いに涙を流す。生活保護申請の窓口にいる男も、免許センターの受付の女も、スーパーの店長も、偏見やルールでもって男を突き放す場面があるが、そこに収まり切らない人間の善意が滲む。

 

観客側には彼ら彼女らの善意は伝わるのだが、当の本人にはまったく伝わらず歯がゆい。三上は人の言動を悪いように解釈してはすぐに激昂し、進みかけていた物事も自らダメにしてしまう。三上を取材対象にしようとしていた作家志望の津乃田は、三上の暴力衝動には生育環境に原因があるのでは、と疑う。そして津乃田は、取材対象者として三上を「消費」する立場を超えて、彼の母を一緒に探そうと動き出すが……くらいであらすじは止めておく。

 

ところで最近、「性格」と呼ばれるものは環境によっていかようにも変化すると言うことをよく考える。かといって環境でもって他人のすべてを紋切り型に収めて判断することには慎重でいなければならない。マイルドなものだと「末っ子はわがまま」だとか、その手の偏見から、できるだけ自由でありたい。自由にはなれなくてもせめて意識的でありたい。

 

とはいえ、その人のバックグラウンドなしに、性格と呼ばれるものや、その人の振る舞いを切り取って良し悪しをジャッジしてよいものかとも思う。そもそも、他人をジャッジすることがおこがましいのだけど。

 

先の芸人のツイートに戻ると、虐待をするに至った人の背景にあるものを想像せず、その行動だけを切り取って「ゴム虫」扱いする思想とは、やっぱり相容れない。必要なのは虐待する人への罰ではなくケアだ。人とのつながりを断たないこと。ひとりで辛さを抱えたまま孤立しないこと。と言うことまではわかる。芸人を批判するだけではなく、自分をもう一歩先に進めるにはどうしたらいいのだろう。自分自身、困った人を避けて安全を確保しようとしている面がないわけがないのだ。社会のなかで安全の範囲が狭すぎるのが問題なのかもしれない。ではどうしたら。

 

技巧で多くの人を楽しませる作品もいいのだけど、自分は答えのない問いを探す作品により触れていたい。問いの立て方も、それを裏付ける役者さん達の演技も、演出も、年月をかけて練られた形跡を確かに感じ、物語の辛さとは裏腹に、愛のようなものをしっかりと受け取った。