「穴」と「袋」からの脱却〜映画『あのこは貴族』

映画『あのこは貴族』を観た。

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松濤の良家に生まれ、そのまま実家で暮らす女性(門脇麦)と、富山の一般家庭に生まれ、猛勉強の末に慶応に合格して上京した女性(水原希子)。境遇の異なる2人の人生が、東京でひととき混じり合うお話。

 

階級のちがう2人の人生をクロスさせる役割を担うのが、高良健吾演じる、日本のなかでもトップオブトップに君臨する上流階級の男性だ。そんな家柄のド金持ちに接したことなんてもちろんない。しかし、彼が生まれた家にある、純度100%のガッチガチな家制度的価値観には既視感がある。この純度が薄まった世界に、わたしたちは暮らしている。この人たちがトップに君臨し続ける限り、わたしたち庶民はその薄まった価値観のなかで生きざるを得ない面があるんじゃないだろうか。この家は、政治家の家系らしく、おそらくは自民党所属だと思う。劇中に「子どもには、太郎とか一郎とか、人が書きやすい名前をつける」っていうセリフがあって、わ、あの人この人!と思い出し(高良健吾の役名は「幸一郎」)、生まれた瞬間から投票用紙を意識される運命というのも凄まじいものがあるなと思った。

 

あらかじめ家に決められたセーブポイントをこなすプレッシャーに晒される男性も辛いだろうが、その男性に振り回される女性の側も悲惨だ。

 

峰なゆかさんとの対談で田嶋陽子さんが話していたことを思い出す。「あえてひどい言い方になるけど」と前置きした上で、「男にとって、女は『袋』か『穴』か」と。つまり、家を継ぐ子どもを作るための「袋(=子宮)」を持った女か、欲求を満たすための「穴」を持った女か。この映画の場合は、門脇麦演じる良家の娘が「袋」で、水原希子演じる富山出身の女性が「穴」扱いされる。

 

これまでのドラマや映画なら、両者は衝突していただろうが、そうならないのがこの映画の新しさだろう。やや説明的すぎるセリフではあったが、石橋静河演じる、バイオリニストの女性が言っていた通り、これまで女性は男性たちの都合によって分断させられ、敵対関係に置かれてきた背景を踏まえ、1人の男性をめぐってもなお、2人はお互いの立場をさりげなく尊重する態度をとった。

 

それぞれが「穴」と「袋」から脱却するのに有用だったのは、お互いがそれまでも大切にしてきた友人との関係であった。主人公2人が熱っぽく結託して高良健吾をとっちめる、みたいなわかりやすさがないのもよかった。本来の敵は彼ではないのだから。

 

女性の自立、というと華々しい。しかし実際に、自分が依存せざるを得なかったものから手を離すのにはあらゆる困難がつきまとう。そこにある事情はどれもまったくもってキラキラしていない。かといって、ドロドロだけかというとそうでもない。女性が自立して生きることへの困難を見据えながらも、爽やかな希望を残すラストだった。