2021年3月21日(日)/うしろめたさが俺の武器だ!

買った卵を持ってった袋に入れようとしたら手を滑らせて落としちゃって、うわ〜と思うが先か、レジの店員さんがすかさず売り場まで走って、なんとそのまま新しい卵と交換してくれた!その親切心(あるいはレギュレーション)にありがたさと申し訳なさで猫背になっちゃったんだけど、これに似たことが仕事でもいくつかあった。人にお気遣いいただいてしまった時の、この申し訳なさ、いたたまれなさってなんなんだろう。「ありがとう、サイコー!」みたいにアッパーな感じで返答した方が、相手も気分がいいものかなと毎度考えてしまう。だけど、そうできない性格に助けられてきた気もする。

 

書きながらどうでもいいことを思い出した。大学生だったか就職したてだったか、帰省して父と外食した時、上司に奢ってもらう時の財布のチラ見せ具合などの「お作法」を練習したことがあった。「いやそれだら財布しまうの早いわ〜」(北海道訛り)とかヤイノヤイノやった覚えがあるけど、その時教わった「申し訳なさそうな演技」をいまだにやってるのか?

 

しかしな、年齢的にはいい加減自分が「施す」側のはずが、なんつーかいつも「施される」側にいる気がしてかたじけないわ。なんだろうね、人に生かされてるとか言ったら安直ですけど、本当にそうだな。

 

っていうかあれだな、私なんぞは若いころよりもプライドがなくなってきてるから、その意味でいまは以前よりは「施し」を素直に受けられるようになってるかも。もっと気持ちが張り詰めていた時のことを考えると、やさしさをやさしさだと認識できなかった時期すらあったから。体調を気遣われるの腹立つ、弱いやつ扱いするなし、みたいな。せっかく差し伸べてくれてた手を「自分でできますんで!」みたいにして邪険に振り払ったことがたくさんありそう。いまにして思うと、弱さに引きずられないよう必死だったんだけど、「かわいそう」だと思われたくない気持ちが異常に強かったのは若さのせいなのか? 

 

最近になってようやく、「かわいそう」だと思われていいというか、虚勢を張らない良さみたいなものを実感していて、思えばこれもまた周りの人たちのおかげだなー。なんなんだろう、今日は周りの人たちへの感謝が止まらない。もしや、この感覚こそ子ども期の終わりを告げてる?