2021年4月17日(土)/甘えに飽きた

映画を観終わって、iPhoneの電源を入れ、ほとんど手癖のようにTwitterを開こうとしたら、ログインできない。未練がましく何度か試したがダメだった。「今日はたくさん遊んで楽しかった〜」と書き込みたかったのに。しかし、書き込めず冷静に考えると、何のためにそんなことをつぶやきたいんだっけ?Twitterってなんなんだ?

 

というわけで、ブログ。今日は、三鷹で演劇を観て、一緒に行った友だちとサイゼリヤで楽しくおしゃべりして、そこからはひとりで阿佐ヶ谷の小さな展示に立ち寄り、新宿で映画を観た。仕事は相変わらず詰まっていて、少しでも時間があるのならなんらか進めておいた方があとあと楽だ。でも、なんかもう嫌。今日明日出さないといけないものもない。だから、今日は丸一日遊ぶことにした。覚悟を決めて楽しいことばかりしてみたら、だいぶ気が晴れた。帰り道、ここ数日ストレスに感じていたことへの自分なりの指針も浮かんだ。

 

フリーの仕事は、「選ばれる」ことにばかり気を払いがちだけど、こちらにも「選ぶ」権利がある。それを忘れていた。一日遊んで、楽しさをいっぱい摂取して、思い出した。

 

どういうことにストレスを感じていたか。自分の考えだけに焦点を当ててそのうち書きたいのだけど、論点がたくさんある。仕事へのスタンス、センシティブな話題を扱う際の手つき、そもそも何を「センシティブ」だと捉えるかの感覚、メディアのあり方などなど。

 

ところで、私は最近まで、「ライター・編集者」と名乗ることにおこがましさを感じていた。これまで自分が接してきた本、雑誌、ウェブ記事。それらを作ってきた編集者やライターの仕事を考えた時に、自分なんぞが同じ職業を名乗るなんて「おこがましい」と。名前を表に出す仕事よりも、匿名で書く仕事の方が多いことにも、「ライター・編集者」を名乗ることへの気後れがあったが、本来それは大きな問題ではない。何かを作って公開してるのにちがいはないのだから。

 

記事の制作を始めて、なんだかんだ丸4年が経った。年数はまだまだ短い。しかし、いい加減「おこがましい」なんて言うこと自体が、キャリアの短さを盾にした「甘え」だと気づいた。どう自認するかにかかわらず、すでに私にはある種の暴力性が備わっている。私が、という特権意識ではない。世の中に何かを伝える仕事をしている人はもちろんのこと、もっと言えば、生きている以上、みんな加害性を備えている。大きな話はここでは置くとして、まずは何かを書いて伝えることに付随する暴力性に限って考えるにしても、それを消すことが正解だとは思っておらず、自分の持つ暴力性をどのように捉え、どう方向づけるかが重要だと思っている。

 

人に迷惑をかけるなら、確信犯でありたい。もしそういう仕事をするのなら、信頼関係があり、共犯関係を結べる相手でないとむずかしい。たぶん、大袈裟な話だと捉えられるだろうけど、そういうことを思った。

 

具体的なことを書かないから、ただの頭でっかち&説教くさい話になっちゃった。あとあと振り返ったとき「言ってんな〜」と恥じる可能性が高い。それもまたいいとしたい。

 

旅行に出ると、普段の生活と距離が生まれ、自分が日々何を感じていたか浮き彫りになったりする。今日丸一日、普段の生活を離れ、とことん遊んでみたことで、旅行の効能のようなものが少しだけ得られた。やっぱり週に一回はまるまる遊ぶ日を持ちたい。