2021年6月3日(木)/怒られる花も枯れて

今週は特に締め切りがない。

月火水は派遣の仕事があって、それ以外はフリーの仕事をしている。先月は終盤になるまでなんだかんだほぼ週7で働いていたので、6月に入って暇になることを心待ちにしていたのに、いざ余裕ができるとポツネンとしてしまう。

去年からやろうやろうと思い続けてるポートフォリオを作るなり、企画書を書くなりに絶好の時間ではある。でも、もう一つやる気が起きない。なぜかというと、「人に怒られるかどうか」が自分のなすべきことの一つの基準になっていて、ポートフォリオを作らなくても、企画書を書かなくても誰にも怒られないからだ。

これはおそらく純会社員時代(最初の会社にいた頃を指す)に根付いた発想で、その頃もやらなくても自分にしか迷惑がかからないという意味で、交通費精算をいちばん後回しにしていた。今にして思えば、あの時割と仕事を頑張っていた奥底にあった気持ちは、「認められたい」以前の「怒られたくない」だったのかもしれない。現在の年齢の問題や立場の問題からして、「怒られたくない」以前に、やらないとダイレクトに自分の生活に関わる話だというのに。

そう思いつつ、今日はのんびりした。

昨日、『北の国から』を観て夜更かししていて、気づいたら「エイリアンズ」を語る番組の時間になっていたので、一応観た。ずっとキリンジ及びKIRINJIが好きな身からすると、今ごろ21年前の曲がなぜこんなに取り上げられるようになったんだろって具合に、逆に世の風潮に乗れない気分でもある。

でも、暗い部屋に寝そべって深夜のテレビでキリンジを見てるこの時間が、21〜2年前に初めて深夜の音楽番組で「牡牛座ラプソディ」のPVを見た実家の2階の暗いリビングとつながった。

2つの時間がつながると、21年の月日は一瞬のことに感じられて、そうなるとたぶんこの先21年は、もっと早く過ぎるだろうと変な確信を得てしまった。思ってたよりも、人生はすぐ過ぎるのかもしれない。

これは『北の国から』を観ていても思ったことだ。1981年に連続ドラマから始まり、2002年のスペシャルドラマまで続くなかで、登場人物たちは実際の時の流れと同じだけ年齢を重ねている。これは私がリアルタイムで観ているわけではなく、まとめて観ているからだろうが、人の成長、そして老いを突きつけられるようで動揺してしまう。

スペシャルドラマのなかで何度も、五郎が一人で暮らす部屋に飾られた、小学生の純や蛍の写真が写されるのだが、その度になぜか「あの頃はもう戻ってこないんだよな」と感傷的な気分になってしまう。自分のなかのどこかに、「あの頃(連続ドラマ)=黄金期」という思いがあり、親が子といられる時間の短さを、なぜか親目線で考えて胸が痛くなる。

自分の話に戻ると、実家を出て暮らした年数が、実家に住んでいた年数と今年ついに同じになった。私を怒ってくれるような人も、気がつけばもういない。残りの時間が決して長いわけではないことを意識しながら、それでもやっぱり今日という日をのんびり過ごした。