2021年7月8日(木)/打算のない関係だけが美しいのかーー映画『愛について語るときにイケダの語ること』

『愛について語るときにイケダの語ること』は、生まれつき体に障害を持つ池田英彦さんという方が、がんを患ってから亡くなるまでの最後の2年間の映像をもとにした約60分の短い映画だ。その時間の多くを構成するのが、彼自身による「ハメ撮り」だと聞けば、私のようなものは好奇心をくすぐられてしまう。映画を観て、また上映後のトークを聞いて、それはまさに池田さんの術中にハマった形だとわかった。観に行くきっかけは「すでに他界した障害者のセックス映像」への興味だったが、観終わってから考えたのはそれ以外の部分だった。それもまた池田さんの思う壺だろう。

 

映画は、自身で撮影したハメ撮りのシーン、友人であり脚本家の真野勝成さんが池田さんを撮影したシーンとで構成される。

 

それまで市役所に勤め、創作には特に興味を示していなかったという池田さんは、死を前に、「今までやれなかったことをやりたい」と思い立つ。そしてデリヘル(たぶん)で女性を呼び出してはハメ撮りに勤しむわけだが、池田さんは一方で、お金を介在させずに女性と関わりたい、池田さんの言葉を借りれば「心を委ね」たいという願望を持つようになる。そこで、友人の真野さんが手配した俳優の女性と一緒に、映画のワンシーンとしての「デート」を決行するが、池田さんは最終的に自分の「弱さ」に直面してしまう。

 

池田さんは決してモテない人ではない。顔は滝藤賢一みたいだし、服装にも気を遣っているし、立派な車に乗っている。職場の人間関係にも恵まれているようだったし、以前は歌舞伎町のキャバ嬢と同棲していたこともあるという。しかし、どうやら彼は、お金の介在しない、いわばお互いに打算のない関係に耐えられないようだった。それは言い換えると、自分自身の存在に耐えられない弱さのようにも映った。

 

最後まで、望んでいたように女性へ「心を委ねる」ことができなかった池田さんは、一方で、友人の真野さんに、この映画にまつわるすべての決定権を委ねている。池田さんの死後に、彼のハメ撮りと、真野さんが撮った映像を編集し、映画にしてほしいと。そしてその際の編集権はすべて真野さんに委ねると。(実際の編集作業は映画監督の佐々木誠さんが担当)

 

わたしには、もはやそれは「愛」なのではないかと思った。女性との関係にお金を介在させたように、真野さんとの関係には映画を介在させてはいるが、自分の生きた証を委ねるには、言うまでもなく絶対的な信頼が必要だろう。

 

血縁や恋愛で結ばれた関係性は、誰もが「愛」と認めやすい形だろう。その関係性に金などの打算がないほど、美しいものだとみなされるが、本当にそうだろうか。池田さんのように独身で、恋人もおらず、死ぬまで「勃つ/勃たない」で友人と笑い合い、死んでいった男性は、「愛」に恵まれなかった人とみなされてもおかしくない。しかし、この映画が公開された事実は、池田さんの周りに紛れもなく「愛」があったと言うことを証明している。わたしにはそう感じられた。

 

セックスシーンはあるがエロくもなく、死をことさらエモーショナルにも描かないこの映画に、化学調味料を使わずに作った料理を食べたような気分、いたずらに感情を乱高下させるような仕掛けがないからこそ、楽しいとか嬉しいとか悲しいとか、簡単な形容詞に収まらない静かで割り切れない感情が芽生えた。