2022年12月29日(木)/仕事と生活を除いた2022年の雑感

最近はっきり自覚したのだけど、映画や小説などの創作物にはとことん自分を痛めつけに来てほしい。そういう欲求がわたしにはあります。傷ついて、そこから時間をかけて傷つきの理由を見つめて、自分を知りたい。そう、自分を知る手立てとして創作物や表現全般に触れているんだと思います。

 

で、ひとまず映画に限って言えば、去年は『花束みたいな恋をした』『アレックス STRAIGHT CUT』『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』などを映画館で観て、それぞれ方向性は違うもののしばらく引きずる重さを持った作品で、どれもヘロヘロになりながら帰路に着いたものです。(花束以外は完全な新作ではないけれど)2021年は自分にとって痛めつけ映画豊作の年だったと言えるでしょう。

 

いっぽう2022年に目を向けると、まず、自分自身が仕事にかまけ放題だったため、仕事が絡まない映画や本にあまり触れられませんでした。痛めつけ云々以前に、そういう問題があった。

 

で、こちらは傷つきを求めに行っているわけなので、同年代の生き方、結婚妊娠出産あたりを取り上げる映画にはそういう期待をして、見つければ率先して観に行っていたわけですが、その筆頭のような『わたしは最悪。』も『セイント・フランシス』も自分には「頭で作ってるな」としか思えなかった。きっと誰かの気持ちを軽くする映画だろうなとは思ったけど、もっと深いところから傷を抉ってほしいという自分のニーズに応えるものではなかったのです。

 

女性の体や性を扱う映画で言えば、『六月の蛇』が今年公開20周年記念で、一夜だけのリバイバル上映が新文芸坐であったのに仕事で行けず悔しかったので、配信を見つけてたぶん10年ぶりくらいに観てみた。ら、ストーリーなんてもはや破綻してる感じだけど、異常な熱量と緊張感で突っ走る、その熱さにひどく感激してしまった。体にガツンとくる。痺れる。基本的に集中力がないので配信で映画を最後まで観ること自体あまりないんだけど、これは余裕でした。

 

しかし、どうなんですかね。たぶん、私がピンと来なかった2作の方が時代に合っていて、『六月の蛇』は20年前だから作れたもののような気がしないでもない。でも自分は、『六月の蛇』が女性の性の切実さ、「女性の自己決定権」とかのきれいな言葉には収まりきらない矛盾した欲望を描いていることにめちゃくちゃグッと来てしまう。

 

そんなわけで2022年に公開された、30代女性の自己決定権系映画(めっちゃ適当な括りなのであまり間に受けないでください)にはあまり心を動かされなかった私ですが、同じく今年公開の映画でひどく抉られたのが、満75歳以上に死の自己決定権を与えるという近未来の日本を舞台にした『PLAN75』でした。同年代かどうかとかが自分にとっての大きな問題ではなかった、社会に蔓延する優生思想的な価値観を突きつけてくるこの映画にこそ痛めつけられたのです。

 

観たあと45日位気落ちしていたし、街中にあるマイナポイントの広告を見たりワクチンの大規模接種センターに行ったりしてまた気落ち。というのも、この映画の中で描かれる「PLAN75」という政策の打ち出し方が、マイナポイントみたいな一種の軽さを持って描かれていてそれが妙にリアルだったし、大規模接種センターのような過不足のない親切さが、「PLAN75」で死を選んだ高齢者が最後に向かう施設のスタッフのそれと似ていて、だからこの映画はまさに今の日本社会ではないか、みたいな気持ちになるのですよ。(ワクチン無料で打たせてくれるのはありがたいことなので、それを否定しているわけではないです、ウェブに書くときには要らない注釈をつけたくなるなぁ、私は見えない敵と戦っているのか?)

 

この映画を観て「75歳になったら死を選べるなんてありがたい!」という反応をする人も結構いるようで、そう思う気持ちもわからなくないけど、やっぱり、少なくとも現時点では、そういう価値観に私は抗いたい。映画の冒頭に若者が大量殺人を犯すシーンがあり、それはやまゆり園事件を想起させるもので、国が75歳以上の高齢者を死に導く政策の根本にあるものは、あの事件の犯人の考え方とどう違うのか、と観客に突きつけていると考察するツイートを見て、だからこそやっぱり抗いたいと思った。

 

内容そのものの話とややずれるが、この映画を撮った早川千絵さんが今回45歳で商業映画デビューをされていることもめちゃ興味深い。もともと映画を学んで海外留学をしたのちに、育児でキャリアが中断。そこから再度映画の道に戻って、こんなにすごい映画を作った早川さんの歩みにも興味を惹かれる。

 

この映画も脚本に4年かけたということなので、今後も、新作をバンバン発表、という感じではないかもしれない。だけど、早川監督が、悲惨なテーマを描きながらも、世界に対する美しさへの信頼のようなものを持っていることをスクリーンから感じ、だから何年後になってもいい、次回作を楽しみに待ちたい。

 

さてはて、映画はそのほかにも『偶然と想像』『香川1区』『スープとイデオロギー』『ある男』『NOPE』『TITANE』とかがよかった。『すずめの戸締まり』はよくわからなかった、というか新海誠全般よくわからないのに一応新作が出たら映画館で観ている自分の行動もよくわからない。人間の手に負えないやばいやつに立ち向かう映画だったら『NOPE』の方が断然好き。だから本当に、この映画のどこに刺さればいいのかまじでわからない。皮肉とかじゃなくて、本当にただわからない。こないだ出たラジオでも「すごく感動して逆に喋れない」と語りを拒もうとしていた鈴木謙介さんに、それでもズケズケ尋ねてみたけれど、聞いても聞いてもやっぱりわからない。だけどそのわからなさに興味がある。だから今後もこのわからなさを抱えていきたい。

 

あと演劇もたぶん去年より観れませんでしたね。いくつか観たことのない劇団にもチャレンジしたものの、どれもあまり自分には刺さらなかった。あ、内容云々は(完全に)さておき、花園神社の唐組を初めて観たことは、経験としてはよかったです。最後にセットが後ろに倒れて役者が宙吊りになるだけでありがたいものを観た気分になったし、演劇そのものが始まる前の整列からして独特で、お祭りに来たみたいな高揚感を味わえました。でもまあ、もう行かないだろうな。

 

あとあれだ、マームとジプシーにも数年ぶりに再挑戦してみたけれど、今回で徹底して自分とは合わないなと悟ったりもしました。https://twitter.com/yucchi_ro_rin/status/1566044308586651648?s=61&t=etHF17QgE8eYt4prDEzcOA

 

んで、何がよかったかというと結局、ハイバイでありナカゴー・ほりぶんで、好きな劇団の入れ替わりが少ない。上記に挙げた劇団はいつ観てもおもしろいから、むしろ変だと思う。おもしろくないことがないって、ほんとすごい。

 

特に、ハイバイの『ワレワレのモロモロ』はすごかった。「ワレワレのモロモロ」は、役者さん自身が辛かった・しんどかった経験を脚本にして、その本人を含める複数人で作品として演じるシリーズ。舞台上にいる当事者の過去をお焚き上げする瞬間を観客が目撃する、ある種の精神療法のような作品で、観ている側にも浄化がもたらされるような不思議な手触りのあるシリーズなのです。

 

今回特にすごかったのは、川面千明さん「川面の出産」で、ハイバイ劇団員の川面さんの実際の出産にまつわるしんどさを演劇化したものだったんだけど、爆笑しながら涙が勝手に流れてくるという珍しい経験をさせてもらった。妊娠とか出産の本当に辛い部分って、なんとなく伏せられているようなムードがあるけど、この演劇によって追体験できた感じがある。だから、今後父親になる方にはぜひ観てほしい、赤ちゃん相当の重さのやつをお腹につけてみるとかよりも、ずっとリアルにヤバさがわかりそう。できればあの映像を父親学校(?)の必修化にすべきだと思うけど、もう配信もとっくに終わっていて、今から観る機会がないので残念。また何かの機会にアーカイブ配信することもあるかもしれないので、妊娠の予定がある人もない人にも強くお勧めします。『エルピス』で大活躍した村井役の岡部たかしの息子・岡部ひろきが、父・たかしへの葛藤を演劇化した「自己紹介岡部」もよかった、というかこんなこと演劇にしていいんだ、って感じですごかったので、ほんと、再配信を気長に待ちたい。

 

はー、お笑いとか本とかのこともおさらいしたかったけど、疲れたのでこれで終わり。お笑いは書くのが大変だし、本はほんとに仕事関連以外読めてないし。一言だけ書くとしたら、東畑開人さんの『聞く技術、聞かれる技術』と『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』はめちゃよかった。あと『枡野浩一全短歌集』はZINEを作ってる時心の支えにしていました。

 

明日の夜には地元に帰るんだけど、帰ったらもう、ブログを更新する気力が沸かないのが目に見えているので、不完全だけどとりあえず残しておきたかった、2022年の仕事と生活を除いた、というか主に観た映画と演劇の雑感でした。

2022年9月7日(水)/とりあえず花

日記再開するとか言って、ぜんぜんできてない。なんだろう、何事にもやる気が出ない。演劇みたりお笑いみたり、受け身の趣味は活発なのに、自分が手を動かすことについてずいぶん腰が重い。

こんな調子では仕事をする手も止まりがちで、あきらめてノートパソコンを半分閉じ、降り始めた雨にもめげず花屋に行き、小さなブーケを買ってみた。

なにかの記事で、植物があると集中できる(人もいる)と読んだから。

集中できるかはともかく、目にやさしくていい。

目にも、胃にも、足にも、脳にもいいことだけしていたい。

そのためにも、自分がしなくてもいいと思う仕事を断る勇気がほしい。

2022年9月1日(木)/再開

始めるまでの億劫さと、得られる充実感は比例していると思う。身近なものだとシャワーやお風呂、(たまにしかしないが)ジョギングなんかもそうで、やればすっきりするのがわかっていても、始める前はめんどくさくて仕方がない。仕事も同じで、充実感は薄いけど手を動かしさえすれば終わるものにはさっさと手をつけ、考える必要があってその代わりに完成すれば充実感を得られる仕事ほど遅い時間にのろのろと取り掛かる。「じっくり考えるべき仕事や物事の判断は、午前中の頭がスッキリしている時間に!」なんて脳科学者なんかのインタビューを目にするたび、小さく後ろめたい。

自分にとって、始めるのが億劫なのに、やれば充実感を得られるものの代表が考えを書き出す作業で、中でもいちばん身近で日常的なものが日記だ。自分しか見ないアプリの日記はずっとメモ的につけているが、ここで言う日記は公開する前提で書くもののほうを指している。書いている最中に心がシンとなるのがまずいいし、公開後の誰かからの思いがけない反応にも副産物的な喜びがある。だから、日記は書いた方がいい。それなのにこの半年以上のあいだ、自分の考えを書き出す作業をいちばん後回しにしていた。これはもはや、小さなセルフネグレクトである。

賃労働などにかまけて逃げ続ける自分についてこの数ヶ月延々考え、ぐるぐる考えるくらいならさっさと動けばいいのにそうは行かない性格で、だけどセルフケアを怠り続ける自分をどうにかしたい。こうなったら強制的に文章を書く仕組みを自分で作るしかない。

ということで11月の文学フリマに申し込んでみました、正確には明日までにお金を払って正式な申し込みとなるわけですが。とにかくこれで一旦締切ができ、一冊何かを作るためには文章の練習もしないとまずい。ということで、日記を再開します。

2022年1月29日(土)/個人的なできごと2021

昨日ようやく年賀状のお返事を出せた。

もう一つ、1月中にはと思っていたのが2021年の振り返り。 1月中旬に一度書きかけてやめた。最初は映画とか本とかをベースに書こうとして、Twitterとアプリの日記、ブクログとフィルマークスを読み返し、作品を逐一メモし始めたら疲れてしまった。

そもそもよかった映画なり本なりの話はだいたいTwitterに一度書いていて目新しさがないので、ツイートとかブログに書いていない2021年のできごとを振り返る。

▪︎金髪にした

一度やってみようとうっすら思っていたのを、10月に実行することになった。覚悟の決まらないまま、美容師との話の流れでなんとなく。

しばらくは明るい頭髪に目が慣れず、似合ってるのか似合ってないのかもよくわからず、流されて金髪にしたことを後悔していた。最終的に決めたのは自分なのに、美容師を恨みもした。

1ヶ月くらいすると徐々に目が慣れて、まあ別にいいか、と思うようになったけども、会社の女性に言われた「随分ボーイッシュになりましたね」が引っかかり、今は上から赤っぽい色を入れている。赤っぽい色が脱ボーイッシュになってるのかは不明。自分は身長が高いこともあり、ボーイッシュにしてしまうとそれはもうほとんど男。

それにしても、ブリーチしたとてカラーはすぐ落ちる。ものの2週間で最初の色と変わってしまうことは、やってみるまで知らなかった。髪の毛のケアはめんどくさいし楽しい。ブリーチしてきれいな髪を保ってる人がいると、どうやってケアするか質問するようになった。

▪︎低容量ピルを始めた

PMS治療に効くと知りながらも、なんとなく気後れしていた低容量ピル。去年産婦人科の先生を取材したことをきっかけに、試してみることにした。記事を作ったりそのために取材をしたりすると、その対象が急に自分ごと化する。

試してみて思うのは、「20代から飲んでおけばよかった!」。1週間前に来る、ズドンとした暴力的な食欲。前日に来る、異常な緊張感や不安感。それらがかなりゆるやかになった。

このことは自分の生活にとって小さな革命だったので、同性の友だちに会うと進んでこの経験を話した。とっくに使っている友だちもいれば、ピルへの抵抗感を持ってる友だちもいて、反応はさまざまだった。

自分自身、ピルへの漠然とした恐怖心や偏見があった。ピルを飲むことは自分の健康のためなのに、避妊効果の解釈を「男性の快楽のため」として見る向きがあるのは勘違いではないはず。その偏見のせいで、自分のように心身への負担からの解放が遅れる人がいるなら、その誤解はできるだけ解かれるべき。どんな目的であれ、自分の体を自分で管理するだけの話なんだから。

でもどうなんだろう。1983年生まれ現在38歳の私は、旧式なジェンダー意識と新しいジェンダー意識の狭間世代にいると思う。だからいま20代の人たちはそんな昔の考えにとらわれずに、自分の体を大事にできているのかもしれない。そうであってほしい。

ちなみに、40歳をすぎると低用量ピルを飲むためにはより頻繁な検査が必要になるそうだ。血栓症のリスクが高まるらしい。とりあえずあと2年はこのままお世話になるつもり。

▪︎子育てしてる人向けのウェブメディアで働いた

派遣会社からの紹介を受け、ジェンダーにまつわる記事が書けるなら、と働くことにした。私に子育ての経験はない。

ピルの項目にも書いたけど、記事を作るためにはそのテーマを自分ごと化する必要がある。周りに子どもを育てる友だちがいないわけではないけれど、彼女たちの状況を「自分ごと」として考えたことは一度もなかった。冷たいようだけど、本当のことだから仕方ない。

とある知り合いの女性が「生まれたばかりの子どもを一人で見守り続けないといけない緊張感がつらかった」と言っていたのも、そのときには本当にピンと来ていなかったけど、今なら少しはわかる。

そして、社会が子育てをする女性に冷たいということも、前よりはずっとわかるようになった。

だけど、「子どもを持ちたい」という気持ちについてはいまもわからない。私は、子どもを産むことを自分が圧倒的な加害者になることだと捉えて恐れてきた。それは自分の未熟さにも繋がる話だと思う。だから、「子どもを持ちたい」と願う人に対しては、眩しさや憧憬に似た思いがある。と同時にもしかしたらそこには微量の嫉妬も混じっているかもしれない。この複雑な感情を拡大させていけば、その先には「お前が好きで産んだのに文句言うな」と子育てアカウントを攻撃する人たち(驚くほどいる)の憎悪に繋がるかもしれない。

だけど、それでも、「子どもを持ちたい」と思って実行した人が肩身の狭い思いをするのは絶対違う。ベビーカーが憎い人は、自分で自分の心の中を覗くべきだ。子どもを育てる女性におのれの憎悪をぶつけるのは完全に間違い。

子育てメディアに携わるようになってから、駅や道で困っている子連れの女性を見ると助けたいと思うようになった。自分が子どもを持つのにためらいがあっても、子どもや母親である人たちにはやさしくしたい。

それなのに、かえって邪魔で迷惑じゃないか、不審に思われるんじゃないか、などの思いが先立って行動に移せない。取材で「ベビーカーで電車に乗ったら嫌がらせされて、だんだん家の外の人は全員敵に見えるようになった」という話も聞いた。子育てに冷たい社会において、母親が他人をやすやすと受け入れられない気持ちもわかる。

どうしたら、この溝が埋まるんだろうと最近よく考えている。

 

***

 

2022年にしたいことは、食いしばりの治療(最近悪化してるのかエラが張ってきた)、枕のオーダーメイド(安眠を極めたい)、カーテンの新調(ずっと横幅が足りていない)、誰かとの親密な関係性の構築(それが恋人ってことなのかどうかはよくわからない)などなど。ストレスをうまくいなす一年にしたい。

2022年1月8日(土)/人に時間を使ったらそれはもう仕事

思うところありこの年末年始は、数年ぶりに実家で過ごした。12月は珍しい忙しさだったので、その分年末年始だけは一切仕事をしないと決め、実際その通りにしたが、5日に東京の狭い自室に戻ってきたとき、ぜんぜんふつうに疲れが抜けてないことに気がついた。実家では仕事はおろか、お雑煮を作る以外は雪かきも掃除も料理も運転も何もしていなかったのに。

前からうすうす思っていたけど、自分以外の人のために時間を使うことを仕事と呼ぶのがいい。お金をもらう仕事は、賃労働とかなんか別の呼び方にして。できればそれがえらい、みたいなニュアンスを抜いた言葉で。そういうわけで、自分にとっては年末年始も仕事だったと振り返る。それは家族を単純に嫌いとかそういう問題でもないし、自分のやるべきことの一つだったことにはきっと違いない。

わたし以外の家族(ここでは父親と弟を指す)はお金を稼ぐことの優先順位が高いので、好きこのんで儲かりにくい職業に就き、東京の狭い部屋に暮らしているわたしを否定こそしないものの、不思議&不憫には思っているようだ。しかし部屋が狭かろうと、お金が大して無かろうと、自分の好きにできることこそが今のわたしにとって優先されるべきことであって、だから別に派手なアクティビティがなくても、自分で自分の時間を好きにできることが大事なのです。

そんな年末年始を経て、6日に遅めの仕事始めを迎えたわけだが、こっちの方がよっぽど気楽なもんだ。賃労働にかまけて家庭をかえりみない男性は、主に配偶者の女性に叱られるけれど、わたしは誰かに叱られることがないだけで、賃労働にかまけている意味で変わらない。わたしの場合は、自分で自分を叱らないとならない。「生活のために」という言い訳はなかなか頑丈で、その人が目を向けるべきものから逃げるのに最適な口上だ。

去年の後半は賃労働にかまけて、自分で好きなように書くことをサボっていた。賃労働を頑張った自分を否定はしないけど、好きなように書くことをサボった自分には待ったをかけたい。思ったことを都度書いていかないと自分の中の軟骨がすり減る。思いを言葉にして人目に晒すことでしか得られないものがあるというか。

とはいえ悩ましいのは、今の自分の実力では賃労働を休みなく詰めたところで大した金額にならないことで、そうなると好きなように書くことばかりに時間を割いてもいられないのだけど、それはおそらくどんな人でも苦心している点だろうし、自分の体力や体質に合わせたやり方を探るしかない。

そんなわけで手始めに、去年のよかったこと(映画本お笑いその他)を数日中に書いてまとめたい。2019年は書いたけど2020年はたしかサボった。

あまりにも漠然とした今年の所信表明のようなもの。

2021年9月14日(火)/しゃべる日記

気づけば一ヶ月ほど日記を書いていない。

更新の間がひらいていざ書くとなると、肩に力が入る。「うまいこと書きたい欲」もじゃまくさい。

というわけで、しゃべってみた。

アンカーってアプリを使った。BGM流したりできるみたいだけど、夜はWi-Fiが重くて(これ最近のマイクロストレス)今日はあきらめた。なので、本当にただしゃべっているだけのハードコアラジオです。

ちなみに、女性店員を再現するとき、ちょっと声を高くしてしまったのが今回いちばんの反省点です。自分のなかのミソジニーが顔を出した瞬間……。

16分ちょっとしゃべってますが、聴いてくださる場合は、いちばん速い設定がいいと思います。

anchor.fm

2021年8月8日(日)/雑な言葉に抵抗したい

昨日は何をしていても、小田急線の事件のことが頭から離れなかった。

 

「幸せそうな女性を殺してやりたいと思った」

この言葉があまりにも強烈で、目にした瞬間からいろんな感情が渦巻いた。報道の通りにそんなことを言っていたとすれば、あきれるほど「雑」で「幼稚」だ。そんな思い込みをもとに、何の落ち度もない女の人を襲った加害者、とんでもなく理不尽な暴力に傷つけられた被害者が、どちらもそう遠くない場所に存在することにひどく動揺した。気持ちを整理して鎮めたいがために、思ったことをツイートしては、やっぱり「ちがう」気がして削除した。「フェミサイドを許すな」以外の言葉はすべて「ちがう」とみなされそうな空気に気圧され自己検閲した。

 

そもそも、なにか起きたときに、事件の当事者でも、専門家でもない人たちが、限られた情報を頼りに憶測でものを断定していいのだろうか。私たちは報道機関というフィルターを通した情報にしか触れることができない。それらが発信する情報は、ほんとうに一言一句すべてが「事実」なのだろうか。より「わかりやすい」ものに翻訳されている可能性はないか。しかし、「いますでに出てる情報を読んでフェミサイドじゃないとどうして言えるのか」との声に、口をつぐんでしまう。

 

いや、実際自分だっていっぱい言いたいことがある。特に、報道で加害者の供述が明らかになればなるほど、言いたい気持ちは膨らんでいく。でも、断片的な情報をもとに何かを決めつけること自体が誰かの尊厳を傷つけている可能性はないのか。いくら犯人への抗議であっても、もしかしたら被害に遭われた方はとにかく静かにしてほしいと思っている可能性はないのか。あるいは、どういう趣旨であれこの事件を話題にすること自体、その社会的な影響の大きさを感じた犯人を喜ばせる可能性はないのか。(犯人が自分で情報に触れるのはもう無理だけど)ほんとうのところはやっぱりわからない。こんなブログだって、ほんとうは書かないほうがいいのかもしれない。

※(8/9 17時追記)確保直前に「多分ぼく有名になると思うんで、今のうちに握手しておきますか」と人に声をかけたという報道があったため、やっぱりそういう欲求もあるのかもしれない。

 

  

しかし、自分のなかにもひどい矛盾がある。普段社会のことを熱心に書いている人たちが今回の件に触れず「通常運転」しているのを見て、一瞬心のなかに黒いものが広がるのを感じた。SNSに書き込んでいることがその人のすべてではないことくらい少し考えればわかるのに、気持ちが追いつかない瞬間がある。それに、もし実際に今回の事件に心を寄せていないとして、じゃあいつもの自分はどうなのだ。いくらでもある世の中の差別や理不尽の多くに無頓着なくせに、自分にとってわかりやすくて身近な話題にのみヒステリー的反応を起こす自分の態度は、きっと簡単に改められるものではないが、少なくとも自覚する必要がありそうだ。

 

いろんなことを言う人がいるが、「こんなひどい事件が起きる社会はよくない」「今回被害に遭った方たちに、どうか適切な心身のケアが施されてほしい」という点では、きっと多くの人が似た気持ちではないだろうか。いや、もしかしたらそれさえ一致せず、「もっとやれ!」という人もいるのかもしれないが、わたしは多くの人たちがそう願っていると思いたい。こんな事件が起きる社会をよくないと考えるならば、加害者の動機や背景に社会の「よくない」部分を知るヒントが隠されていると思うのだが、それ自体を加害者擁護とみる人たちもいるようだ。加害者が言ったとされる「勝ち組の典型に見えた」「可愛らしい服を着て男性に好かれそうだったため殺そうと思った」などというあまりにも「雑」で「幼稚」な動機がどのように形成されたのかに目を向けることは、私たちが暮らす社会の歪みを浮き彫りにする足掛かりにはならないだろうか。こんな蛮行に及ぶケースがかなり稀だとしても、犯人に同調するような声もどうやら少なくないし、じゃあそれほどの憎悪を募らせた社会とはいったいなんなのか。

 

まだまだ考えるための材料は少ないが、そもそも私たちの暮らす社会には、自分の人生を(加害者の言葉を借りれば)「クソ」だと思わせる要因がそこかしこに潜んではいないだろうか。自由だ、多様性だと口で言いながらも、私たちの抱く「幸せ」のイメージは、本当に自由で多様だろうか。実は、加害者の考える「幸せそう」を、多くの人が内面化してしまってはいないだろうか。「幸せそう」にない人たちを、そして自分を、無意識に憐れんだり、卑下してはいないだろうか。

 

それに加え、人に物を多く買わせるためには、不安を煽ったりコンプレックスを刺激するのが効果的だから、メディアや広告は人の不足を指摘する。一部の「成功者」を過度に崇めることも、人に不全感を抱かせるのに有効だろう。そういう価値観の一つひとつを内面化しながら、「クソ」とまではいかないにしろ、自分の人生の「不足」に目を向けさせられている。マスコミが力を失ったと言われながらも、オリンピックが始まったらほぼ全局が祭りムードを振りまいて、そのことが遠からず社会全体のコロナへの危機感を薄れさせただろうし、スケボーで日本の若い選手が金メダルを取ったら、翌日にスケボーがこれまでにないくらい売れるんだから、メディアの影響はぜんぜんあなどれないわけだし。

 

ならばせめて、「雑」で「幼稚」な言葉を、まずは自分が使わないようにしたい。「正しい」と「正しくない」のあいだの葛藤を受け入れる場所を、まずは自分の心のなかに持ちたい。実際に被害に遭われた方々を置き去りにして、自分の不安解消を優先しないようにしたい。メディアの報道に「不安」を感じても、即座に鵜呑みにしないようにしたい。これが、いまの時点で自分が思っていることだ。間違っているかもしれない。でも書いておきたかった。

2021年8月7日(土)/虫の知らせといいますが

社会不安に飲み込まれている。そういうときは日記。身近なことに目を向けて、自分を取り戻していきたい。

 

そこで話題に出す身近なことがまったくポジティブではない&凡庸なもので悲しいが、最近のホットトピックは部屋に登場するゴのことです。ただでさえ世のなかのできごとで気が滅入っているのに、今年は例年より登場回数が多く、弱り目に祟り目とかいうやつです。

もちろん対策はしています。ブラックキャップやクローブ設置などの王道は数年前から実施し、それに加えて侵入口と疑われる場所を塞いだり、ハッカ油を振り撒きまくったり、年々対策をアップデートしているこちらの気も知らずに、黒い影はあらわれるのです。

こうなってくるとすべてに過敏になります。目に映るあらゆるシミにビクビクします。足に首ふり扇風機の風が当たっただけでハッッッとなり、そうなるともう一旦電気をつけ布団をよかして点検しないと安心できません。些細な音にも不安になるし、そんな調子では眠りが浅い。小山田圭吾の件でしんどかったときは、夢の中身も小山田圭吾の件とゴの件の二本立てだったので逃げ場がありませんでした。

が、今朝急に新たな策を思いつきまして。策というか原因なのだけど、ニンニクです。このところずっとマスクだし、人としゃべることも少ないので、試しにあれやこれやにニンニクを入れてみたら、あれもこれもぐっと美味しい。意気揚々と大きめのチューブを買い、何かを炒める時にはまず熱したオリーブオイルにジュワッとニンニクを落とすようになりました。免疫力も上がるらしいし、コロナ禍にはもってこい。

が、ふと、以前住んでいた部屋の一階にあるイタリア料理屋さんを思い出したのです。夕方になると漂わせていたニンニクのおいしい匂いと一緒に、そのお店のまわりにあったゴの気配がふと蘇りました。玉ねぎがゴの好物なのは前から知っていて用心していましたが、もしやニンニクも? と調べたところ、案の定リストにあるではありませんか。東京暮らし15年目にあるまじき見落とし。さらには、「シュクメルリを家で作ったけど、ニンニクの匂いがすごいのが欠点。これじゃお家全体がゴキブリホイホイだよ〜」とツイートしている人がいて、おおおお原因!と興奮しました。興奮したけれど、同時にささやかな楽しみが消滅しました。悲しいけれど寒くなるまでニンニク生活は中断です。とはいえ、悲しみよりも原因(と思われるもの)が見つかった安堵のほうが大きいわけですが。

ニンニク断ちに望みをかけつつ、もしこれでまた出たらノイローゼになってしまいそうです。いっそマインドセットを変えて、というか催眠術か何かかけてもらって、ゴが嫌いじゃない状態に持っていけたらどんなにいいでしょう。というかそもそも、なんであんなに「怖い」と思ってしまうのでしょうか。体格のちがいで言ったらこちらが圧倒的ですし。そして、嫌いなのに、怖いのに、考えることをやめられないのもなぜ。こないだ読んだ脳研究の本のなかに、人の脳はもともとネガティブなものに強く反応、記憶するようにできているとあったからそんなものなのでしょうか。そのうえ、世の中のしんどいできごとには無力さを感じる一方、自分で状況を改善する余地がある分、ゴ対策考えてるほうがまだ気持ちがましな気もします。しかしそれってどんな世の中なんですか。

 

ちなみに、わたしが実際に出てきてしまったときに使うのは、スクラビングバブルでこれは広くおすすめしたい逸品。殺虫剤を使うよりも人間の体に(たぶん)やさしく、その上泡で包み込むことができるので、ビジュアル的な辛さも軽減されます。わたしはこのところこのひんやりとしたスプレーを抱いて寝ています。

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2021年7月8日(木)/打算のない関係だけが美しいのかーー映画『愛について語るときにイケダの語ること』

『愛について語るときにイケダの語ること』は、生まれつき体に障害を持つ池田英彦さんという方が、がんを患ってから亡くなるまでの最後の2年間の映像をもとにした約60分の短い映画だ。その時間の多くを構成するのが、彼自身による「ハメ撮り」だと聞けば、私のようなものは好奇心をくすぐられてしまう。映画を観て、また上映後のトークを聞いて、それはまさに池田さんの術中にハマった形だとわかった。観に行くきっかけは「すでに他界した障害者のセックス映像」への興味だったが、観終わってから考えたのはそれ以外の部分だった。それもまた池田さんの思う壺だろう。

 

映画は、自身で撮影したハメ撮りのシーン、友人であり脚本家の真野勝成さんが池田さんを撮影したシーンとで構成される。

 

それまで市役所に勤め、創作には特に興味を示していなかったという池田さんは、死を前に、「今までやれなかったことをやりたい」と思い立つ。そしてデリヘル(たぶん)で女性を呼び出してはハメ撮りに勤しむわけだが、池田さんは一方で、お金を介在させずに女性と関わりたい、池田さんの言葉を借りれば「心を委ね」たいという願望を持つようになる。そこで、友人の真野さんが手配した俳優の女性と一緒に、映画のワンシーンとしての「デート」を決行するが、池田さんは最終的に自分の「弱さ」に直面してしまう。

 

池田さんは決してモテない人ではない。顔は滝藤賢一みたいだし、服装にも気を遣っているし、立派な車に乗っている。職場の人間関係にも恵まれているようだったし、以前は歌舞伎町のキャバ嬢と同棲していたこともあるという。しかし、どうやら彼は、お金の介在しない、いわばお互いに打算のない関係に耐えられないようだった。それは言い換えると、自分自身の存在に耐えられない弱さのようにも映った。

 

最後まで、望んでいたように女性へ「心を委ねる」ことができなかった池田さんは、一方で、友人の真野さんに、この映画にまつわるすべての決定権を委ねている。池田さんの死後に、彼のハメ撮りと、真野さんが撮った映像を編集し、映画にしてほしいと。そしてその際の編集権はすべて真野さんに委ねると。(実際の編集作業は映画監督の佐々木誠さんが担当)

 

わたしには、もはやそれは「愛」なのではないかと思った。女性との関係にお金を介在させたように、真野さんとの関係には映画を介在させてはいるが、自分の生きた証を委ねるには、言うまでもなく絶対的な信頼が必要だろう。

 

血縁や恋愛で結ばれた関係性は、誰もが「愛」と認めやすい形だろう。その関係性に金などの打算がないほど、美しいものだとみなされるが、本当にそうだろうか。池田さんのように独身で、恋人もおらず、死ぬまで「勃つ/勃たない」で友人と笑い合い、死んでいった男性は、「愛」に恵まれなかった人とみなされてもおかしくない。しかし、この映画が公開された事実は、池田さんの周りに紛れもなく「愛」があったと言うことを証明している。わたしにはそう感じられた。

 

セックスシーンはあるがエロくもなく、死をことさらエモーショナルにも描かないこの映画に、化学調味料を使わずに作った料理を食べたような気分、いたずらに感情を乱高下させるような仕掛けがないからこそ、楽しいとか嬉しいとか悲しいとか、簡単な形容詞に収まらない静かで割り切れない感情が芽生えた。

2021年6月3日(木)/怒られる花も枯れて

今週は特に締め切りがない。

月火水は派遣の仕事があって、それ以外はフリーの仕事をしている。先月は終盤になるまでなんだかんだほぼ週7で働いていたので、6月に入って暇になることを心待ちにしていたのに、いざ余裕ができるとポツネンとしてしまう。

去年からやろうやろうと思い続けてるポートフォリオを作るなり、企画書を書くなりに絶好の時間ではある。でも、もう一つやる気が起きない。なぜかというと、「人に怒られるかどうか」が自分のなすべきことの一つの基準になっていて、ポートフォリオを作らなくても、企画書を書かなくても誰にも怒られないからだ。

これはおそらく純会社員時代(最初の会社にいた頃を指す)に根付いた発想で、その頃もやらなくても自分にしか迷惑がかからないという意味で、交通費精算をいちばん後回しにしていた。今にして思えば、あの時割と仕事を頑張っていた奥底にあった気持ちは、「認められたい」以前の「怒られたくない」だったのかもしれない。現在の年齢の問題や立場の問題からして、「怒られたくない」以前に、やらないとダイレクトに自分の生活に関わる話だというのに。

そう思いつつ、今日はのんびりした。

昨日、『北の国から』を観て夜更かししていて、気づいたら「エイリアンズ」を語る番組の時間になっていたので、一応観た。ずっとキリンジ及びKIRINJIが好きな身からすると、今ごろ21年前の曲がなぜこんなに取り上げられるようになったんだろって具合に、逆に世の風潮に乗れない気分でもある。

でも、暗い部屋に寝そべって深夜のテレビでキリンジを見てるこの時間が、21〜2年前に初めて深夜の音楽番組で「牡牛座ラプソディ」のPVを見た実家の2階の暗いリビングとつながった。

2つの時間がつながると、21年の月日は一瞬のことに感じられて、そうなるとたぶんこの先21年は、もっと早く過ぎるだろうと変な確信を得てしまった。思ってたよりも、人生はすぐ過ぎるのかもしれない。

これは『北の国から』を観ていても思ったことだ。1981年に連続ドラマから始まり、2002年のスペシャルドラマまで続くなかで、登場人物たちは実際の時の流れと同じだけ年齢を重ねている。これは私がリアルタイムで観ているわけではなく、まとめて観ているからだろうが、人の成長、そして老いを突きつけられるようで動揺してしまう。

スペシャルドラマのなかで何度も、五郎が一人で暮らす部屋に飾られた、小学生の純や蛍の写真が写されるのだが、その度になぜか「あの頃はもう戻ってこないんだよな」と感傷的な気分になってしまう。自分のなかのどこかに、「あの頃(連続ドラマ)=黄金期」という思いがあり、親が子といられる時間の短さを、なぜか親目線で考えて胸が痛くなる。

自分の話に戻ると、実家を出て暮らした年数が、実家に住んでいた年数と今年ついに同じになった。私を怒ってくれるような人も、気がつけばもういない。残りの時間が決して長いわけではないことを意識しながら、それでもやっぱり今日という日をのんびり過ごした。