暇と猫/2025年2月27日(木)

最近は、というか今月は、単発の取材仕事がなくて暇だった。暇を公言するのには勇気がいる。暇な状態にあるのは、わたしが社会からのニーズや価値のない人間だからであり、それがバレるとまずい。だから、暇であることは隠さないといけない。暇だと言いたくない理由はそんなところだが、一方「病は市に出せ」という言葉も頭をかすめる。これは、日本一自殺の少ない徳島県海部町に代々伝わる格言だそうで、どんな意味かといえば、悩みやトラブルなどを恥ずかしいと思って隠すとかえって問題が大きくなり解決しにくくなるので、問題が小さいうちに周りに話しておいた方がいい、というような言葉だ。海部町に行ったことはなく、確か末井昭さんの『自殺』という本で知った。

 

とにかく、そんなこんなで暇だった。暇なのだが、日々それなりにやることはある。作った本を発送したり、バイトしたり、人と会ったり、映画を観たり。思い返せば、無職時代もそれなりに毎日やることがあった。生きている以上家事は発生するし、買い物しないとならないし、何らかの書類をどっかに提出しなきゃいけない。だから本当に何もやることがない状態というのはなかなか訪れない。本当には、暇ではない。となると自分にとって暇ってなんだろう。誰かから「これをお願いしたいです」と依頼されていない状態、なのだろうか。それってなんて他人軸な生き方だろう。恥ずかしい。暇も恥ずかしいが、暇に対する意識もまた恥ずかしい。ついでに言えば、忙しいのもちょっと恥ずかしい。忙しいと公言すると、わたしに何かを依頼しようとしている人を遠慮させてしまうのではないかと勝手に恐れて何も言えなくなる。

何なんだ。結局どんな状態であっても、他人のことばかりで、それがいちばん恥ずかしい。もう少し自分本位に生きたい。あと、身近な人たちからの食事やお茶などへのお誘いを「暇か否か」にカウントせず、あくまで仕事としてのオファーがあるかどうかを自分の価値だと思っている節があり、己の歪みを感じる。色々アレだ。そもそも「価値」って何。わからないし、さまざま歪みがある。だからせめて、その歪みを無視せず、できるだけ言葉にして、自分の病を市に出そう。

 

ところで先週、この暇を利用して猫と過ごしていた。自宅から歩ける距離に住む弟の旅行中、弟が飼う猫の面倒をみるため弟の部屋に寝泊まりしていたのだ。当初はペットシッターに来てもらう予定だったところを、「いや、わたしが面倒みます!」と名乗り出た。年末年始の帰省にはいつも実家に連れて帰ってきていたので、猫とは面識がある。でも二人きりという状況は初めてで、不安と期待があった。

猫と蜜月の時間を過ごしたい。そんなすけべ心を猫に悟られないよう、ある程度澄ました気持ちで誰もいない弟の部屋に入ると、割とすぐにわたしの方へ寄ってくるではないか。わたしの足元をぐるぐるしながら、尻尾をわたしの足になすりつけてくる。これはめっちゃ嬉しい。猫に受け入れられた。気持ちを返そうと、猫の頭やのどを撫でていると今度は猫がゴロンと床に寝っ転がってお腹を見せてくれる。生き物がお腹を見せるのは、相手に心を許している証拠だと何かで読んだことがある。そう思ってお腹をわしゃわしゃと撫でていると、なんだか急に雲ゆきがあやしくなる。お腹を撫でているわたしの指を甘噛み以上マジ噛み未満くらいの強度で噛み、お腹丸出しスタイルからピャッと四足姿勢に戻ってシャーとか言っている。怒ってるっぽい。さっきまであんなにゴロニャンだったのに。めちゃ悲しい。猫に拒絶された。

寝る前、Perplexiyというchat GPTみたいなAIのソフトに、「甘えてくるようなそぶりを見せて寄ってきた猫を撫でていたら急に怒り出しました。原因を教えてください」と聞いてみると、いくつか原因候補を挙げてくれたが、いちばん思い当たったのは「撫ですぎ」だった。こちらとしては、甘えてきてくれたその思いに応えたい一心で猫を撫でていたが、たしかに猫がどのくらい撫でてほしいのかはわからない。言葉が話せないから、噛むとかになってしまうのも仕方ない。

一度は拒絶されて傷つき、猫なんて勝手で嫌い! という気持ちも芽生えかけたが、いや、付き合い方、距離感を見直せば二者の間に適切な関係を築けるのでは、と思い直した。だってやっぱり仲良くしたい。なのでそれ以降はどんなに可愛らしく誘惑してきても、グッと気持ちを抑え、撫でるのはせいぜい2〜3回にとどめてあくまで自分のすべきこと(ご飯を食べる、水曜日のダウンタウンを観る、スマホでゲームをする、など)に集中することにした。その思惑がうまくいった。わたしが寝る体勢に入ると、猫が自分の前足でわたしの足をフニフニと揉み、そのあと足の上に乗っかってくれた。これは毎晩続いた。寝る体勢としては不自由だったけれど、その重みとあたたかさが心地よくて心が落ち着いた。そんな調子で最後の日までいい感じの距離感で過ごした。うんちの処理にも徐々に慣れた。生き物を飼うということは、食べるものと出すもののお世話がメインだ。そんな当たり前のことを体感した。あとそういえば、自分は猫アレルギーだと思い込んでいたが、今回はほとんど発症しなかった。

最終日、部屋を後にするときは感傷的な気分になった。また会えることくらいはあるかもしれないけど、こんなに長く二人でいられることはきっともうない。猫はそれなりに歳をとっている。年末年始の飛行機移動も猫にとって負担が大きいようで、弟も「もしかしたら今後はペットホテルに預けるかも」と言っていた。そんな事情を猫は知らない。猫にとってわたしはご飯(たまにちゅーる)をくれて、トイレを掃除して、寝るときにあったかいだけの存在。でもそれでいい。受け入れられているとか拒絶されているとか、価値があるとかないとかそういうことより、同じ部屋でなんとなく一緒にいること。それでいいと思えたら、自分の存在についてもそのくらいの認識でいられたら、もっと落ち着いて日々を過ごせそう。

帰る段になっても猫はわたしを追うでもなく、定位置であるベッドの上を動かない。それでいい。別にこの話に教訓はない。でも、暇だから猫と過ごせた。暇を悪者扱いするだけではない生き方ができたらいい。こういう無為な文章も暇だからこそ書ける。最初は読み終わっておもしろかった本の感想を書くつもりが、なんだかこうなった。よしとする。

TikTokという逃げ場/2024年6月19日(水)

風邪を引いた。先週木曜から喉に異変があって、金曜には全身が重だるくなり、その日の夜には38.5度の熱が出てうなされ、土曜も日曜もあきらめて寝ていたら、月曜にはどうにか起きて仕事ができるくらいには回復した。水曜の現在はもうさほど辛さはないものの、風邪からの副鼻腔炎のせいでにおいがほぼ感じられない。しょっぱいとか甘いとかはわかる。

動けなかった3日間では、金曜にバーのバイトを飛ばし、土曜に弟たちとのジンギスカンの予定を飛ばし、日曜に『GIFT』(映画『悪は存在しない』の別バージョンみたいなやつ)の予約を飛ばした。どれも楽しみにしていたのに、特に土日の方。

そういった楽しみを全部キャンセルし、部屋のベッドで延々寝、起きてもベッドからは離れずTikTokを見、また寝、起きてウーロン茶とビタミンCサプリを飲み、TikTokを見、ヨーグルト食べ、だった。

TikTokは動けない体にちょうどよかった。

人によってTikTokで何が流れてくるかは違うと言うが、私のTikTokは徐々に社会的スティグマの要素を持つ人たちの投稿が増えていった。というか、TikTok全体に、世の中で色眼鏡を持たれてしまう要素を持つ人たちの日常を公開しやすい何かがある気がする。それがやさしさや包容力から来るものなのか、単にネットリテラシーのなさからくるものなのか、どう判断すればいいのか私にはまだよくわからない。

ネットリテラシーの面だけで言えば、子どもの顔を無邪気にあげている親の多いことに驚いた。以前あるウェブメディアで、子どもの意思を尊重する意味合いでも、ペドフィリア対策の意味合いでも、性別を問わず幼い子どもの顔をネットに公開すべきではないと専門家から聞き、注意喚起するような記事を作った。それは数年前のことで、今はそれが常識になりつつあるような気がしていた、TikTokを見るまでは。そう、そこは完全に無法地帯だった。窓から差し込む光の加減だけでも、その住所を特定できる人がいると聞くのに、動画でこんなにも自分の身の回りを公開して危なくないんだろうかと、まるで知らない人たちのことを心配してしまう。

子どもを公開することはやはり気になってしまうが、TikTok全体を覆う剥き出しな雰囲気、ネットリテラシーのネの字もないからこそのおおらかさに、こう言ってはなんだけど、癒された。昔のインターネットを見てるような気分になるのだ。昔の、というのは、私が中学生とか高校生だった25年前くらいの話。ブラクラとか、グロい画像が急に出てくることも多かった、あの頃の感じ。それがなぜか、新しいはずのTikTokで感じられるのだから不思議だ。先鋭化しまくって本当は多くの人がついていけていない議論が飛び交うTwitterより、TikTokのおおらかさに居心地の良さを感じてしまう。

TikTokにかかれば、チック症も、害虫と暮らす奇人も、35歳差カップルも、ホス狂いも、元受刑者も、病も、死も、なんでも軽くなる。それがいい。自分で書いていて、高みの見物のようで嫌だなとも思う。だけど、私は下品なのだから仕方がない。かつ、いま挙げた人たちはみんな自分の意思で投稿している人たちである。書きながら気づいたが、やはりスティグマを持つ人たちを他者がネタ的に投稿しているものは、私も引いてしまう。それが倫理観なのかどうかはわからないけど、自分にはそこに線引きがあるらしい。

そんなふうに熱中していたのだけれど、風邪が快方に向かうにつれ、TikTokを開いても心が反応しなくなった。なんだったんだろう。

だけど、また具合が悪くなったり、先鋭化した議論に疲れたりしたら、TikTokの海に溺れたい。

思ったようにはなる/2024年5月30日(木)

10年近く同じ部屋に住むと、とにかく物がたまる。「使わないけど捨てるには惜しい」と取っておいたものが、クローゼットを圧迫している。

まさかこの部屋に10年も住むとは思っていなかった。ここに移り住む前、わたしは当時付き合っていた人と住んでいた。その人との関係がどうしようもなくなって、ろくに話し合いもしないまま部屋を出た。一緒に住むきっかけを作ったのはわたしなのに、関係を壊すきっかけを作ったのもわたしだ。最初から最後までわがままだった。とにかくあの頃、わたしはひとりになるしかなかった。

今いる地域や沿線にはずっと憧れがあった。不動産屋さんに入った時、キリンジの「エイリアンズ」が流れていて、だからきっといい部屋が見つかると思った。その予感は的中して、条件の合う部屋を探し当ててくれた。契約をし終えた日の晴れ晴れとした気分は今も覚えている。

10年のうちには、それなりにいろんなことがあった。引っ越してきた当時勤めていた会社をやめ、別の会社に入ってまたやめて×2社を経て、ほぼ無職、派遣、フリーランスと、仕事の形態をさまざま経験することになった。一緒に暮らしていた人とは引っ越し後一ヶ月くらいの時に別れ、また誰かと付き合ったり、付き合わないけど会うようになったり、そういうのを経て、今はひとりでいる。

クローゼットの整理をしていたら、10年前以上の年賀状が出てきた。これもまた「使わないけど捨てるには惜しい」ものの一つである。当時勤めていた会社の同じ部署のおじさんたちからの年賀状もあれば、営業先だった書店さんからのものもあるし、今では没交渉だけどわたしのインスタストーリーを見てくれてはいるらしい高校や大学の友人たちの生まれたての赤ちゃんがプリントされた葉書なんかもたくさんあった。

この年賀状に、思いがけず気付かされた。わたしの周りに、こんなに人がいた時代があったのだ。翻って、今のわたしはひとりである。これは望んだことなのだ。

思い描いていたことは、だいたいその通りになる。しかしその通りになったとして、それが必ずしも幸せな状態かというとそれはまた別の話だ。叶った時にはそれを思い描いていた頃の自分とはすでにずれがあったりする。その時々に想像できることにはいつも限界がある。だけど、それがわかったらまた思い描き直せばいい。何度も想像し直して、自分が楽しく明るくいられるよう、調整を繰り返していけばいいのだ。

具体的な引っ越しの予定はないけれど、また自分がどこかに向かおうとしている気がするので、そういう時には考えを記録するのがいい。そう思って書いてみた。何を書くか決めてもなかったけど、いざやってみるとこういう文章になった。

2022年12月29日(木)/仕事と生活を除いた2022年の雑感

最近はっきり自覚したのだけど、映画や小説などの創作物にはとことん自分を痛めつけに来てほしい。そういう欲求がわたしにはあります。傷ついて、そこから時間をかけて傷つきの理由を見つめて、自分を知りたい。そう、自分を知る手立てとして創作物や表現全般に触れているんだと思います。

 

で、ひとまず映画に限って言えば、去年は『花束みたいな恋をした』『アレックス STRAIGHT CUT』『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』などを映画館で観て、それぞれ方向性は違うもののしばらく引きずる重さを持った作品で、どれもヘロヘロになりながら帰路に着いたものです。(花束以外は完全な新作ではないけれど)2021年は自分にとって痛めつけ映画豊作の年だったと言えるでしょう。

 

いっぽう2022年に目を向けると、まず、自分自身が仕事にかまけ放題だったため、仕事が絡まない映画や本にあまり触れられませんでした。痛めつけ云々以前に、そういう問題があった。

 

で、こちらは傷つきを求めに行っているわけなので、同年代の生き方、結婚妊娠出産あたりを取り上げる映画にはそういう期待をして、見つければ率先して観に行っていたわけですが、その筆頭のような『わたしは最悪。』も『セイント・フランシス』も自分には「頭で作ってるな」としか思えなかった。きっと誰かの気持ちを軽くする映画だろうなとは思ったけど、もっと深いところから傷を抉ってほしいという自分のニーズに応えるものではなかったのです。

 

女性の体や性を扱う映画で言えば、『六月の蛇』が今年公開20周年記念で、一夜だけのリバイバル上映が新文芸坐であったのに仕事で行けず悔しかったので、配信を見つけてたぶん10年ぶりくらいに観てみた。ら、ストーリーなんてもはや破綻してる感じだけど、異常な熱量と緊張感で突っ走る、その熱さにひどく感激してしまった。体にガツンとくる。痺れる。基本的に集中力がないので配信で映画を最後まで観ること自体あまりないんだけど、これは余裕でした。

 

しかし、どうなんですかね。たぶん、私がピンと来なかった2作の方が時代に合っていて、『六月の蛇』は20年前だから作れたもののような気がしないでもない。でも自分は、『六月の蛇』が女性の性の切実さ、「女性の自己決定権」とかのきれいな言葉には収まりきらない矛盾した欲望を描いていることにめちゃくちゃグッと来てしまう。

 

そんなわけで2022年に公開された、30代女性の自己決定権系映画(めっちゃ適当な括りなのであまり間に受けないでください)にはあまり心を動かされなかった私ですが、同じく今年公開の映画でひどく抉られたのが、満75歳以上に死の自己決定権を与えるという近未来の日本を舞台にした『PLAN75』でした。同年代かどうかとかが自分にとっての大きな問題ではなかった、社会に蔓延する優生思想的な価値観を突きつけてくるこの映画にこそ痛めつけられたのです。

 

観たあと45日位気落ちしていたし、街中にあるマイナポイントの広告を見たりワクチンの大規模接種センターに行ったりしてまた気落ち。というのも、この映画の中で描かれる「PLAN75」という政策の打ち出し方が、マイナポイントみたいな一種の軽さを持って描かれていてそれが妙にリアルだったし、大規模接種センターのような過不足のない親切さが、「PLAN75」で死を選んだ高齢者が最後に向かう施設のスタッフのそれと似ていて、だからこの映画はまさに今の日本社会ではないか、みたいな気持ちになるのですよ。(ワクチン無料で打たせてくれるのはありがたいことなので、それを否定しているわけではないです、ウェブに書くときには要らない注釈をつけたくなるなぁ、私は見えない敵と戦っているのか?)

 

この映画を観て「75歳になったら死を選べるなんてありがたい!」という反応をする人も結構いるようで、そう思う気持ちもわからなくないけど、やっぱり、少なくとも現時点では、そういう価値観に私は抗いたい。映画の冒頭に若者が大量殺人を犯すシーンがあり、それはやまゆり園事件を想起させるもので、国が75歳以上の高齢者を死に導く政策の根本にあるものは、あの事件の犯人の考え方とどう違うのか、と観客に突きつけていると考察するツイートを見て、だからこそやっぱり抗いたいと思った。

 

内容そのものの話とややずれるが、この映画を撮った早川千絵さんが今回45歳で商業映画デビューをされていることもめちゃ興味深い。もともと映画を学んで海外留学をしたのちに、育児でキャリアが中断。そこから再度映画の道に戻って、こんなにすごい映画を作った早川さんの歩みにも興味を惹かれる。

 

この映画も脚本に4年かけたということなので、今後も、新作をバンバン発表、という感じではないかもしれない。だけど、早川監督が、悲惨なテーマを描きながらも、世界に対する美しさへの信頼のようなものを持っていることをスクリーンから感じ、だから何年後になってもいい、次回作を楽しみに待ちたい。

 

さてはて、映画はそのほかにも『偶然と想像』『香川1区』『スープとイデオロギー』『ある男』『NOPE』『TITANE』とかがよかった。『すずめの戸締まり』はよくわからなかった、というか新海誠全般よくわからないのに一応新作が出たら映画館で観ている自分の行動もよくわからない。人間の手に負えないやばいやつに立ち向かう映画だったら『NOPE』の方が断然好き。だから本当に、この映画のどこに刺さればいいのかまじでわからない。皮肉とかじゃなくて、本当にただわからない。こないだ出たラジオでも「すごく感動して逆に喋れない」と語りを拒もうとしていた鈴木謙介さんに、それでもズケズケ尋ねてみたけれど、聞いても聞いてもやっぱりわからない。だけどそのわからなさに興味がある。だから今後もこのわからなさを抱えていきたい。

 

あと演劇もたぶん去年より観れませんでしたね。いくつか観たことのない劇団にもチャレンジしたものの、どれもあまり自分には刺さらなかった。あ、内容云々は(完全に)さておき、花園神社の唐組を初めて観たことは、経験としてはよかったです。最後にセットが後ろに倒れて役者が宙吊りになるだけでありがたいものを観た気分になったし、演劇そのものが始まる前の整列からして独特で、お祭りに来たみたいな高揚感を味わえました。でもまあ、もう行かないだろうな。

 

あとあれだ、マームとジプシーにも数年ぶりに再挑戦してみたけれど、今回で徹底して自分とは合わないなと悟ったりもしました。https://twitter.com/yucchi_ro_rin/status/1566044308586651648?s=61&t=etHF17QgE8eYt4prDEzcOA

 

んで、何がよかったかというと結局、ハイバイでありナカゴー・ほりぶんで、好きな劇団の入れ替わりが少ない。上記に挙げた劇団はいつ観てもおもしろいから、むしろ変だと思う。おもしろくないことがないって、ほんとすごい。

 

特に、ハイバイの『ワレワレのモロモロ』はすごかった。「ワレワレのモロモロ」は、役者さん自身が辛かった・しんどかった経験を脚本にして、その本人を含める複数人で作品として演じるシリーズ。舞台上にいる当事者の過去をお焚き上げする瞬間を観客が目撃する、ある種の精神療法のような作品で、観ている側にも浄化がもたらされるような不思議な手触りのあるシリーズなのです。

 

今回特にすごかったのは、川面千明さん「川面の出産」で、ハイバイ劇団員の川面さんの実際の出産にまつわるしんどさを演劇化したものだったんだけど、爆笑しながら涙が勝手に流れてくるという珍しい経験をさせてもらった。妊娠とか出産の本当に辛い部分って、なんとなく伏せられているようなムードがあるけど、この演劇によって追体験できた感じがある。だから、今後父親になる方にはぜひ観てほしい、赤ちゃん相当の重さのやつをお腹につけてみるとかよりも、ずっとリアルにヤバさがわかりそう。できればあの映像を父親学校(?)の必修化にすべきだと思うけど、もう配信もとっくに終わっていて、今から観る機会がないので残念。また何かの機会にアーカイブ配信することもあるかもしれないので、妊娠の予定がある人もない人にも強くお勧めします。『エルピス』で大活躍した村井役の岡部たかしの息子・岡部ひろきが、父・たかしへの葛藤を演劇化した「自己紹介岡部」もよかった、というかこんなこと演劇にしていいんだ、って感じですごかったので、ほんと、再配信を気長に待ちたい。

 

はー、お笑いとか本とかのこともおさらいしたかったけど、疲れたのでこれで終わり。お笑いは書くのが大変だし、本はほんとに仕事関連以外読めてないし。一言だけ書くとしたら、東畑開人さんの『聞く技術、聞かれる技術』と『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』はめちゃよかった。あと『枡野浩一全短歌集』はZINEを作ってる時心の支えにしていました。

 

明日の夜には地元に帰るんだけど、帰ったらもう、ブログを更新する気力が沸かないのが目に見えているので、不完全だけどとりあえず残しておきたかった、2022年の仕事と生活を除いた、というか主に観た映画と演劇の雑感でした。

2022年9月7日(水)/とりあえず花

日記再開するとか言って、ぜんぜんできてない。なんだろう、何事にもやる気が出ない。演劇みたりお笑いみたり、受け身の趣味は活発なのに、自分が手を動かすことについてずいぶん腰が重い。

こんな調子では仕事をする手も止まりがちで、あきらめてノートパソコンを半分閉じ、降り始めた雨にもめげず花屋に行き、小さなブーケを買ってみた。

なにかの記事で、植物があると集中できる(人もいる)と読んだから。

集中できるかはともかく、目にやさしくていい。

目にも、胃にも、足にも、脳にもいいことだけしていたい。

そのためにも、自分がしなくてもいいと思う仕事を断る勇気がほしい。

2022年9月1日(木)/再開

始めるまでの億劫さと、得られる充実感は比例していると思う。身近なものだとシャワーやお風呂、(たまにしかしないが)ジョギングなんかもそうで、やればすっきりするのがわかっていても、始める前はめんどくさくて仕方がない。仕事も同じで、充実感は薄いけど手を動かしさえすれば終わるものにはさっさと手をつけ、考える必要があってその代わりに完成すれば充実感を得られる仕事ほど遅い時間にのろのろと取り掛かる。「じっくり考えるべき仕事や物事の判断は、午前中の頭がスッキリしている時間に!」なんて脳科学者なんかのインタビューを目にするたび、小さく後ろめたい。

自分にとって、始めるのが億劫なのに、やれば充実感を得られるものの代表が考えを書き出す作業で、中でもいちばん身近で日常的なものが日記だ。自分しか見ないアプリの日記はずっとメモ的につけているが、ここで言う日記は公開する前提で書くもののほうを指している。書いている最中に心がシンとなるのがまずいいし、公開後の誰かからの思いがけない反応にも副産物的な喜びがある。だから、日記は書いた方がいい。それなのにこの半年以上のあいだ、自分の考えを書き出す作業をいちばん後回しにしていた。これはもはや、小さなセルフネグレクトである。

賃労働などにかまけて逃げ続ける自分についてこの数ヶ月延々考え、ぐるぐる考えるくらいならさっさと動けばいいのにそうは行かない性格で、だけどセルフケアを怠り続ける自分をどうにかしたい。こうなったら強制的に文章を書く仕組みを自分で作るしかない。

ということで11月の文学フリマに申し込んでみました、正確には明日までにお金を払って正式な申し込みとなるわけですが。とにかくこれで一旦締切ができ、一冊何かを作るためには文章の練習もしないとまずい。ということで、日記を再開します。

2022年1月29日(土)/個人的なできごと2021

昨日ようやく年賀状のお返事を出せた。

もう一つ、1月中にはと思っていたのが2021年の振り返り。 1月中旬に一度書きかけてやめた。最初は映画とか本とかをベースに書こうとして、Twitterとアプリの日記、ブクログとフィルマークスを読み返し、作品を逐一メモし始めたら疲れてしまった。

そもそもよかった映画なり本なりの話はだいたいTwitterに一度書いていて目新しさがないので、ツイートとかブログに書いていない2021年のできごとを振り返る。

▪︎金髪にした

一度やってみようとうっすら思っていたのを、10月に実行することになった。覚悟の決まらないまま、美容師との話の流れでなんとなく。

しばらくは明るい頭髪に目が慣れず、似合ってるのか似合ってないのかもよくわからず、流されて金髪にしたことを後悔していた。最終的に決めたのは自分なのに、美容師を恨みもした。

1ヶ月くらいすると徐々に目が慣れて、まあ別にいいか、と思うようになったけども、会社の女性に言われた「随分ボーイッシュになりましたね」が引っかかり、今は上から赤っぽい色を入れている。赤っぽい色が脱ボーイッシュになってるのかは不明。自分は身長が高いこともあり、ボーイッシュにしてしまうとそれはもうほとんど男。

それにしても、ブリーチしたとてカラーはすぐ落ちる。ものの2週間で最初の色と変わってしまうことは、やってみるまで知らなかった。髪の毛のケアはめんどくさいし楽しい。ブリーチしてきれいな髪を保ってる人がいると、どうやってケアするか質問するようになった。

▪︎低容量ピルを始めた

PMS治療に効くと知りながらも、なんとなく気後れしていた低容量ピル。去年産婦人科の先生を取材したことをきっかけに、試してみることにした。記事を作ったりそのために取材をしたりすると、その対象が急に自分ごと化する。

試してみて思うのは、「20代から飲んでおけばよかった!」。1週間前に来る、ズドンとした暴力的な食欲。前日に来る、異常な緊張感や不安感。それらがかなりゆるやかになった。

このことは自分の生活にとって小さな革命だったので、同性の友だちに会うと進んでこの経験を話した。とっくに使っている友だちもいれば、ピルへの抵抗感を持ってる友だちもいて、反応はさまざまだった。

自分自身、ピルへの漠然とした恐怖心や偏見があった。ピルを飲むことは自分の健康のためなのに、避妊効果の解釈を「男性の快楽のため」として見る向きがあるのは勘違いではないはず。その偏見のせいで、自分のように心身への負担からの解放が遅れる人がいるなら、その誤解はできるだけ解かれるべき。どんな目的であれ、自分の体を自分で管理するだけの話なんだから。

でもどうなんだろう。1983年生まれ現在38歳の私は、旧式なジェンダー意識と新しいジェンダー意識の狭間世代にいると思う。だからいま20代の人たちはそんな昔の考えにとらわれずに、自分の体を大事にできているのかもしれない。そうであってほしい。

ちなみに、40歳をすぎると低用量ピルを飲むためにはより頻繁な検査が必要になるそうだ。血栓症のリスクが高まるらしい。とりあえずあと2年はこのままお世話になるつもり。

▪︎子育てしてる人向けのウェブメディアで働いた

派遣会社からの紹介を受け、ジェンダーにまつわる記事が書けるなら、と働くことにした。私に子育ての経験はない。

ピルの項目にも書いたけど、記事を作るためにはそのテーマを自分ごと化する必要がある。周りに子どもを育てる友だちがいないわけではないけれど、彼女たちの状況を「自分ごと」として考えたことは一度もなかった。冷たいようだけど、本当のことだから仕方ない。

とある知り合いの女性が「生まれたばかりの子どもを一人で見守り続けないといけない緊張感がつらかった」と言っていたのも、そのときには本当にピンと来ていなかったけど、今なら少しはわかる。

そして、社会が子育てをする女性に冷たいということも、前よりはずっとわかるようになった。

だけど、「子どもを持ちたい」という気持ちについてはいまもわからない。私は、子どもを産むことを自分が圧倒的な加害者になることだと捉えて恐れてきた。それは自分の未熟さにも繋がる話だと思う。だから、「子どもを持ちたい」と願う人に対しては、眩しさや憧憬に似た思いがある。と同時にもしかしたらそこには微量の嫉妬も混じっているかもしれない。この複雑な感情を拡大させていけば、その先には「お前が好きで産んだのに文句言うな」と子育てアカウントを攻撃する人たち(驚くほどいる)の憎悪に繋がるかもしれない。

だけど、それでも、「子どもを持ちたい」と思って実行した人が肩身の狭い思いをするのは絶対違う。ベビーカーが憎い人は、自分で自分の心の中を覗くべきだ。子どもを育てる女性におのれの憎悪をぶつけるのは完全に間違い。

子育てメディアに携わるようになってから、駅や道で困っている子連れの女性を見ると助けたいと思うようになった。自分が子どもを持つのにためらいがあっても、子どもや母親である人たちにはやさしくしたい。

それなのに、かえって邪魔で迷惑じゃないか、不審に思われるんじゃないか、などの思いが先立って行動に移せない。取材で「ベビーカーで電車に乗ったら嫌がらせされて、だんだん家の外の人は全員敵に見えるようになった」という話も聞いた。子育てに冷たい社会において、母親が他人をやすやすと受け入れられない気持ちもわかる。

どうしたら、この溝が埋まるんだろうと最近よく考えている。

 

***

 

2022年にしたいことは、食いしばりの治療(最近悪化してるのかエラが張ってきた)、枕のオーダーメイド(安眠を極めたい)、カーテンの新調(ずっと横幅が足りていない)、誰かとの親密な関係性の構築(それが恋人ってことなのかどうかはよくわからない)などなど。ストレスをうまくいなす一年にしたい。

2022年1月8日(土)/人に時間を使ったらそれはもう仕事

思うところありこの年末年始は、数年ぶりに実家で過ごした。12月は珍しい忙しさだったので、その分年末年始だけは一切仕事をしないと決め、実際その通りにしたが、5日に東京の狭い自室に戻ってきたとき、ぜんぜんふつうに疲れが抜けてないことに気がついた。実家では仕事はおろか、お雑煮を作る以外は雪かきも掃除も料理も運転も何もしていなかったのに。

前からうすうす思っていたけど、自分以外の人のために時間を使うことを仕事と呼ぶのがいい。お金をもらう仕事は、賃労働とかなんか別の呼び方にして。できればそれがえらい、みたいなニュアンスを抜いた言葉で。そういうわけで、自分にとっては年末年始も仕事だったと振り返る。それは家族を単純に嫌いとかそういう問題でもないし、自分のやるべきことの一つだったことにはきっと違いない。

わたし以外の家族(ここでは父親と弟を指す)はお金を稼ぐことの優先順位が高いので、好きこのんで儲かりにくい職業に就き、東京の狭い部屋に暮らしているわたしを否定こそしないものの、不思議&不憫には思っているようだ。しかし部屋が狭かろうと、お金が大して無かろうと、自分の好きにできることこそが今のわたしにとって優先されるべきことであって、だから別に派手なアクティビティがなくても、自分で自分の時間を好きにできることが大事なのです。

そんな年末年始を経て、6日に遅めの仕事始めを迎えたわけだが、こっちの方がよっぽど気楽なもんだ。賃労働にかまけて家庭をかえりみない男性は、主に配偶者の女性に叱られるけれど、わたしは誰かに叱られることがないだけで、賃労働にかまけている意味で変わらない。わたしの場合は、自分で自分を叱らないとならない。「生活のために」という言い訳はなかなか頑丈で、その人が目を向けるべきものから逃げるのに最適な口上だ。

去年の後半は賃労働にかまけて、自分で好きなように書くことをサボっていた。賃労働を頑張った自分を否定はしないけど、好きなように書くことをサボった自分には待ったをかけたい。思ったことを都度書いていかないと自分の中の軟骨がすり減る。思いを言葉にして人目に晒すことでしか得られないものがあるというか。

とはいえ悩ましいのは、今の自分の実力では賃労働を休みなく詰めたところで大した金額にならないことで、そうなると好きなように書くことばかりに時間を割いてもいられないのだけど、それはおそらくどんな人でも苦心している点だろうし、自分の体力や体質に合わせたやり方を探るしかない。

そんなわけで手始めに、去年のよかったこと(映画本お笑いその他)を数日中に書いてまとめたい。2019年は書いたけど2020年はたしかサボった。

あまりにも漠然とした今年の所信表明のようなもの。

2021年9月14日(火)/しゃべる日記

気づけば一ヶ月ほど日記を書いていない。

更新の間がひらいていざ書くとなると、肩に力が入る。「うまいこと書きたい欲」もじゃまくさい。

というわけで、しゃべってみた。

アンカーってアプリを使った。BGM流したりできるみたいだけど、夜はWi-Fiが重くて(これ最近のマイクロストレス)今日はあきらめた。なので、本当にただしゃべっているだけのハードコアラジオです。

ちなみに、女性店員を再現するとき、ちょっと声を高くしてしまったのが今回いちばんの反省点です。自分のなかのミソジニーが顔を出した瞬間……。

16分ちょっとしゃべってますが、聴いてくださる場合は、いちばん速い設定がいいと思います。

anchor.fm

2021年8月8日(日)/雑な言葉に抵抗したい

昨日は何をしていても、小田急線の事件のことが頭から離れなかった。

 

「幸せそうな女性を殺してやりたいと思った」

この言葉があまりにも強烈で、目にした瞬間からいろんな感情が渦巻いた。報道の通りにそんなことを言っていたとすれば、あきれるほど「雑」で「幼稚」だ。そんな思い込みをもとに、何の落ち度もない女の人を襲った加害者、とんでもなく理不尽な暴力に傷つけられた被害者が、どちらもそう遠くない場所に存在することにひどく動揺した。気持ちを整理して鎮めたいがために、思ったことをツイートしては、やっぱり「ちがう」気がして削除した。「フェミサイドを許すな」以外の言葉はすべて「ちがう」とみなされそうな空気に気圧され自己検閲した。

 

そもそも、なにか起きたときに、事件の当事者でも、専門家でもない人たちが、限られた情報を頼りに憶測でものを断定していいのだろうか。私たちは報道機関というフィルターを通した情報にしか触れることができない。それらが発信する情報は、ほんとうに一言一句すべてが「事実」なのだろうか。より「わかりやすい」ものに翻訳されている可能性はないか。しかし、「いますでに出てる情報を読んでフェミサイドじゃないとどうして言えるのか」との声に、口をつぐんでしまう。

 

いや、実際自分だっていっぱい言いたいことがある。特に、報道で加害者の供述が明らかになればなるほど、言いたい気持ちは膨らんでいく。でも、断片的な情報をもとに何かを決めつけること自体が誰かの尊厳を傷つけている可能性はないのか。いくら犯人への抗議であっても、もしかしたら被害に遭われた方はとにかく静かにしてほしいと思っている可能性はないのか。あるいは、どういう趣旨であれこの事件を話題にすること自体、その社会的な影響の大きさを感じた犯人を喜ばせる可能性はないのか。(犯人が自分で情報に触れるのはもう無理だけど)ほんとうのところはやっぱりわからない。こんなブログだって、ほんとうは書かないほうがいいのかもしれない。

※(8/9 17時追記)確保直前に「多分ぼく有名になると思うんで、今のうちに握手しておきますか」と人に声をかけたという報道があったため、やっぱりそういう欲求もあるのかもしれない。

 

  

しかし、自分のなかにもひどい矛盾がある。普段社会のことを熱心に書いている人たちが今回の件に触れず「通常運転」しているのを見て、一瞬心のなかに黒いものが広がるのを感じた。SNSに書き込んでいることがその人のすべてではないことくらい少し考えればわかるのに、気持ちが追いつかない瞬間がある。それに、もし実際に今回の事件に心を寄せていないとして、じゃあいつもの自分はどうなのだ。いくらでもある世の中の差別や理不尽の多くに無頓着なくせに、自分にとってわかりやすくて身近な話題にのみヒステリー的反応を起こす自分の態度は、きっと簡単に改められるものではないが、少なくとも自覚する必要がありそうだ。

 

いろんなことを言う人がいるが、「こんなひどい事件が起きる社会はよくない」「今回被害に遭った方たちに、どうか適切な心身のケアが施されてほしい」という点では、きっと多くの人が似た気持ちではないだろうか。いや、もしかしたらそれさえ一致せず、「もっとやれ!」という人もいるのかもしれないが、わたしは多くの人たちがそう願っていると思いたい。こんな事件が起きる社会をよくないと考えるならば、加害者の動機や背景に社会の「よくない」部分を知るヒントが隠されていると思うのだが、それ自体を加害者擁護とみる人たちもいるようだ。加害者が言ったとされる「勝ち組の典型に見えた」「可愛らしい服を着て男性に好かれそうだったため殺そうと思った」などというあまりにも「雑」で「幼稚」な動機がどのように形成されたのかに目を向けることは、私たちが暮らす社会の歪みを浮き彫りにする足掛かりにはならないだろうか。こんな蛮行に及ぶケースがかなり稀だとしても、犯人に同調するような声もどうやら少なくないし、じゃあそれほどの憎悪を募らせた社会とはいったいなんなのか。

 

まだまだ考えるための材料は少ないが、そもそも私たちの暮らす社会には、自分の人生を(加害者の言葉を借りれば)「クソ」だと思わせる要因がそこかしこに潜んではいないだろうか。自由だ、多様性だと口で言いながらも、私たちの抱く「幸せ」のイメージは、本当に自由で多様だろうか。実は、加害者の考える「幸せそう」を、多くの人が内面化してしまってはいないだろうか。「幸せそう」にない人たちを、そして自分を、無意識に憐れんだり、卑下してはいないだろうか。

 

それに加え、人に物を多く買わせるためには、不安を煽ったりコンプレックスを刺激するのが効果的だから、メディアや広告は人の不足を指摘する。一部の「成功者」を過度に崇めることも、人に不全感を抱かせるのに有効だろう。そういう価値観の一つひとつを内面化しながら、「クソ」とまではいかないにしろ、自分の人生の「不足」に目を向けさせられている。マスコミが力を失ったと言われながらも、オリンピックが始まったらほぼ全局が祭りムードを振りまいて、そのことが遠からず社会全体のコロナへの危機感を薄れさせただろうし、スケボーで日本の若い選手が金メダルを取ったら、翌日にスケボーがこれまでにないくらい売れるんだから、メディアの影響はぜんぜんあなどれないわけだし。

 

ならばせめて、「雑」で「幼稚」な言葉を、まずは自分が使わないようにしたい。「正しい」と「正しくない」のあいだの葛藤を受け入れる場所を、まずは自分の心のなかに持ちたい。実際に被害に遭われた方々を置き去りにして、自分の不安解消を優先しないようにしたい。メディアの報道に「不安」を感じても、即座に鵜呑みにしないようにしたい。これが、いまの時点で自分が思っていることだ。間違っているかもしれない。でも書いておきたかった。