2022年1月8日(土)/人に時間を使ったらそれはもう仕事

思うところありこの年末年始は、数年ぶりに実家で過ごした。12月は珍しい忙しさだったので、その分年末年始だけは一切仕事をしないと決め、実際その通りにしたが、5日に東京の狭い自室に戻ってきたとき、ぜんぜんふつうに疲れが抜けてないことに気がついた。実家では仕事はおろか、お雑煮を作る以外は雪かきも掃除も料理も運転も何もしていなかったのに。

前からうすうす思っていたけど、自分以外の人のために時間を使うことを仕事と呼ぶのがいい。お金をもらう仕事は、賃労働とかなんか別の呼び方にして。できればそれがえらい、みたいなニュアンスを抜いた言葉で。そういうわけで、自分にとっては年末年始も仕事だったと振り返る。それは家族を単純に嫌いとかそういう問題でもないし、自分のやるべきことの一つだったことにはきっと違いない。

わたし以外の家族(ここでは父親と弟を指す)はお金を稼ぐことの優先順位が高いので、好きこのんで儲かりにくい職業に就き、東京の狭い部屋に暮らしているわたしを否定こそしないものの、不思議&不憫には思っているようだ。しかし部屋が狭かろうと、お金が大して無かろうと、自分の好きにできることこそが今のわたしにとって優先されるべきことであって、だから別に派手なアクティビティがなくても、自分で自分の時間を好きにできることが大事なのです。

そんな年末年始を経て、6日に遅めの仕事始めを迎えたわけだが、こっちの方がよっぽど気楽なもんだ。賃労働にかまけて家庭をかえりみない男性は、主に配偶者の女性に叱られるけれど、わたしは誰かに叱られることがないだけで、賃労働にかまけている意味で変わらない。わたしの場合は、自分で自分を叱らないとならない。「生活のために」という言い訳はなかなか頑丈で、その人が目を向けるべきものから逃げるのに最適な口上だ。

去年の後半は賃労働にかまけて、自分で好きなように書くことをサボっていた。賃労働を頑張った自分を否定はしないけど、好きなように書くことをサボった自分には待ったをかけたい。思ったことを都度書いていかないと自分の中の軟骨がすり減る。思いを言葉にして人目に晒すことでしか得られないものがあるというか。

とはいえ悩ましいのは、今の自分の実力では賃労働を休みなく詰めたところで大した金額にならないことで、そうなると好きなように書くことばかりに時間を割いてもいられないのだけど、それはおそらくどんな人でも苦心している点だろうし、自分の体力や体質に合わせたやり方を探るしかない。

そんなわけで手始めに、去年のよかったこと(映画本お笑いその他)を数日中に書いてまとめたい。2019年は書いたけど2020年はたしかサボった。

あまりにも漠然とした今年の所信表明のようなもの。