2021年8月8日(日)/雑な言葉に抵抗したい

昨日は何をしていても、小田急線の事件のことが頭から離れなかった。

 

「幸せそうな女性を殺してやりたいと思った」

この言葉があまりにも強烈で、目にした瞬間からいろんな感情が渦巻いた。報道の通りにそんなことを言っていたとすれば、あきれるほど「雑」で「幼稚」だ。そんな思い込みをもとに、何の落ち度もない女の人を襲った加害者、とんでもなく理不尽な暴力に傷つけられた被害者が、どちらもそう遠くない場所に存在することにひどく動揺した。気持ちを整理して鎮めたいがために、思ったことをツイートしては、やっぱり「ちがう」気がして削除した。「フェミサイドを許すな」以外の言葉はすべて「ちがう」とみなされそうな空気に気圧され自己検閲した。

 

そもそも、なにか起きたときに、事件の当事者でも、専門家でもない人たちが、限られた情報を頼りに憶測でものを断定していいのだろうか。私たちは報道機関というフィルターを通した情報にしか触れることができない。それらが発信する情報は、ほんとうに一言一句すべてが「事実」なのだろうか。より「わかりやすい」ものに翻訳されている可能性はないか。しかし、「いますでに出てる情報を読んでフェミサイドじゃないとどうして言えるのか」との声に、口をつぐんでしまう。

 

いや、実際自分だっていっぱい言いたいことがある。特に、報道で加害者の供述が明らかになればなるほど、言いたい気持ちは膨らんでいく。でも、断片的な情報をもとに何かを決めつけること自体が誰かの尊厳を傷つけている可能性はないのか。いくら犯人への抗議であっても、もしかしたら被害に遭われた方はとにかく静かにしてほしいと思っている可能性はないのか。あるいは、どういう趣旨であれこの事件を話題にすること自体、その社会的な影響の大きさを感じた犯人を喜ばせる可能性はないのか。(犯人が自分で情報に触れるのはもう無理だけど)ほんとうのところはやっぱりわからない。こんなブログだって、ほんとうは書かないほうがいいのかもしれない。

※(8/9 17時追記)確保直前に「多分ぼく有名になると思うんで、今のうちに握手しておきますか」と人に声をかけたという報道があったため、やっぱりそういう欲求もあるのかもしれない。

 

  

しかし、自分のなかにもひどい矛盾がある。普段社会のことを熱心に書いている人たちが今回の件に触れず「通常運転」しているのを見て、一瞬心のなかに黒いものが広がるのを感じた。SNSに書き込んでいることがその人のすべてではないことくらい少し考えればわかるのに、気持ちが追いつかない瞬間がある。それに、もし実際に今回の事件に心を寄せていないとして、じゃあいつもの自分はどうなのだ。いくらでもある世の中の差別や理不尽の多くに無頓着なくせに、自分にとってわかりやすくて身近な話題にのみヒステリー的反応を起こす自分の態度は、きっと簡単に改められるものではないが、少なくとも自覚する必要がありそうだ。

 

いろんなことを言う人がいるが、「こんなひどい事件が起きる社会はよくない」「今回被害に遭った方たちに、どうか適切な心身のケアが施されてほしい」という点では、きっと多くの人が似た気持ちではないだろうか。いや、もしかしたらそれさえ一致せず、「もっとやれ!」という人もいるのかもしれないが、わたしは多くの人たちがそう願っていると思いたい。こんな事件が起きる社会をよくないと考えるならば、加害者の動機や背景に社会の「よくない」部分を知るヒントが隠されていると思うのだが、それ自体を加害者擁護とみる人たちもいるようだ。加害者が言ったとされる「勝ち組の典型に見えた」「可愛らしい服を着て男性に好かれそうだったため殺そうと思った」などというあまりにも「雑」で「幼稚」な動機がどのように形成されたのかに目を向けることは、私たちが暮らす社会の歪みを浮き彫りにする足掛かりにはならないだろうか。こんな蛮行に及ぶケースがかなり稀だとしても、犯人に同調するような声もどうやら少なくないし、じゃあそれほどの憎悪を募らせた社会とはいったいなんなのか。

 

まだまだ考えるための材料は少ないが、そもそも私たちの暮らす社会には、自分の人生を(加害者の言葉を借りれば)「クソ」だと思わせる要因がそこかしこに潜んではいないだろうか。自由だ、多様性だと口で言いながらも、私たちの抱く「幸せ」のイメージは、本当に自由で多様だろうか。実は、加害者の考える「幸せそう」を、多くの人が内面化してしまってはいないだろうか。「幸せそう」にない人たちを、そして自分を、無意識に憐れんだり、卑下してはいないだろうか。

 

それに加え、人に物を多く買わせるためには、不安を煽ったりコンプレックスを刺激するのが効果的だから、メディアや広告は人の不足を指摘する。一部の「成功者」を過度に崇めることも、人に不全感を抱かせるのに有効だろう。そういう価値観の一つひとつを内面化しながら、「クソ」とまではいかないにしろ、自分の人生の「不足」に目を向けさせられている。マスコミが力を失ったと言われながらも、オリンピックが始まったらほぼ全局が祭りムードを振りまいて、そのことが遠からず社会全体のコロナへの危機感を薄れさせただろうし、スケボーで日本の若い選手が金メダルを取ったら、翌日にスケボーがこれまでにないくらい売れるんだから、メディアの影響はぜんぜんあなどれないわけだし。

 

ならばせめて、「雑」で「幼稚」な言葉を、まずは自分が使わないようにしたい。「正しい」と「正しくない」のあいだの葛藤を受け入れる場所を、まずは自分の心のなかに持ちたい。実際に被害に遭われた方々を置き去りにして、自分の不安解消を優先しないようにしたい。メディアの報道に「不安」を感じても、即座に鵜呑みにしないようにしたい。これが、いまの時点で自分が思っていることだ。間違っているかもしれない。でも書いておきたかった。