2021年3月4日(木)/痛みをともなうエトセトラ

人はそれなりの挫折を通らないと、自分を省みることができないものなのでしょうか。したの記事を読んで思ったことのひとつ。

 

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痛い目を見ないと人は変われないんでしょうかね。自分に関して言えば、長く勤めた会社の退職や、付き合っていた人の安い裏切り行為など、いくつか経験してきた「痛い目」が結果的には自分をマシな方に導いてくれたところがある。もし、そういうことを通過しないままでいたら、自分はいまよりもずっとクッソだったと思う。

 

しかし、この幡野さんや大熊さんのように、一度は自分の加害性に目を向けた経験のある(はずの)人であっても今回のような問題を起こすのだから、となると今後も「痛い目」を通してでないと自分を「マシ」に保てないのだろうか。そう思うとなかなか辛いものがある。痛みを伴う改革は、そう何度も経験したくない。ちょっとずつ微調節して、大きな「痛い目」を回避できるといいんだけど、そういうのはどうやったらできるのか。いつもいつも、自分で自分を微調整するなんてこと、できるんだろうか。そもそも、その物差しというのはどこにあるんだろう。

 

と、「痛い目」を恐れる一方で、やっぱり心のどこかで、自分が変わる機会を求めている気がしないでもない。人が出会って別れる映画に妙に心惹かれてしまうのも、その辺が関係していそう。言ってみれば、別れにカタルシスを覚えてしまっている。現実でも、フィクションでも。その辺りはなんかもう少し考えてみたい。なぜわたしは「別れ」が好きなのか。

 

あと、この人の連載に限らずに感じることだけど、多くの人生相談ものは、相談する/される関係が完全に上下になっていて、その世界観がやさしくない。悩みを相談する側が「弱者」みたいな扱いになってるのが、そもそもなんかちがう。相談される側は、言葉を繰るのが上手なだけな場合もある。相談は大喜利じゃないと思うんだけど。

 

そんなことを考えていたら、じゃあひとつのお悩みに対して、いろんな種類(?)の人たちが答えるような人生相談ものがあればいいじゃんと思ったんだけど、そういうのはもうありますか? ありそうですよね。ひとりの人に、たったひとつの正解を求めるのがよくない。みんなが思い思いのことを言って、そのバラバラのなかから、答えみたいなものを考えていくのがいいと思うんだけど、どうすか。