2021年5月5日(水)/微だけど無じゃない

気づいたら連休が後半に入ってるらしい。次の木曜に友だちをランチに誘ったら、もうその日は会社だそうです。そんなもんなのか。早いな連休。

 

何から伝えればいいのか、わからないまま時は流れて、な小田和正状態で、ちょっと日記の間があいたうちに書きたいことが目詰まり起こしてる感じ。

 

とりあえずこの数日考えてること。買い物は暮らしのなかの投票活動、みたいな考え方がある。自分の信条に合わないことをしている会社の作るものにお金を落とすのではなく、自分が応援したい、自分と考えが合う会社の作るものにお金を使おうと。自分自身はそこまで実践できていないけど、その考え方に近づけていきたい気持ちはある。

 

で、お金を使う側の行為であるところの「買い物」が投票の意味を持つのと一緒か、あるいはそれ以上に、お金をもらう側の行為であるところの「仕事」も投票みたいなものなんじゃないかと思うようになった。

 

自分ひとりの力というのはとても微力で、大したことはできないのだけど、しかし「微」であって決して「無」ではない。いくら謙遜しようとも、生きている以上、誰しも「無」にはなれない。となると、自分が時間を費やしていることが、実は自分が推し進めたくない社会の実現に寄与していたら嫌だな、と思い始めた。誰かにお金をいただいている以上、100%自分の思い通りには行かないし、どこまで許容できるかということなんだろうけど。そして、みんな(?)そんなことにはとっくに気がついているのかもしれないけど。

 

それに関連した話。最近読んだ空気階段の2つの記事が、デタラメだったり愛情が足りなかったりするものだった。深い興味がない書き手による記事がでるということは、多分「売れてる」証拠でもあるんだろう。だけど、深い興味を持って空気階段を見ている側からすると、歯がゆさがある。書くならちゃんと書いてくれよ、そんなんだったら私が書きたいわ、と。そんで実際、自分が空気階段を去年取材した記事を読み直してみたら、ちゃんとおもしろかった。ほら、やっぱり!と。

 

しかし、そんなことを思うと同時に、妙な引っ掛かりも感じた。すぐにその引っ掛かりの理由がわからず、自分のことは自分じゃ見えないなと思うけど、よく考えたら自分だってさして興味のないテーマに関する記事を書いている。だから世の中に、対象への深い愛情や関心のない書き手による記事を増やしているということでは同罪。

 

これは空気階段に限らない話だけど、つい最近まで、すごく好きな対象については仕事にしないほうがいいのかも〜、とかそれっぽいことを考えていた。でもそれは自分の腰が引けてるだけかも。深い関心を持つテーマに触れたり、強く惹かれる対象に会ったりすると、自分の感情に燃やし尽くされそうになる。カロリーを大量消費する感じ。だから大変は大変なんだけど、それでも、自分が体重乗せられるテーマに怯んではいけないような気がしてきた。そのほうが自分がまず充実するし、充実した仕事はきっと誰かにも届くと信じたい。そんなことを思いながら、とりあえず締め切りまでに終わらせないといけないものたちをさばくことに必死な連休。