TikTokという逃げ場/2024年6月19日(水)

風邪を引いた。先週木曜から喉に異変があって、金曜には全身が重だるくなり、その日の夜には38.5度の熱が出てうなされ、土曜も日曜もあきらめて寝ていたら、月曜にはどうにか起きて仕事ができるくらいには回復した。水曜の現在はもうさほど辛さはないものの、風邪からの副鼻腔炎のせいでにおいがほぼ感じられない。しょっぱいとか甘いとかはわかる。

動けなかった3日間では、金曜にバーのバイトを飛ばし、土曜に弟たちとのジンギスカンの予定を飛ばし、日曜に『GIFT』(映画『悪は存在しない』の別バージョンみたいなやつ)の予約を飛ばした。どれも楽しみにしていたのに、特に土日の方。

そういった楽しみを全部キャンセルし、部屋のベッドで延々寝、起きてもベッドからは離れずTikTokを見、また寝、起きてウーロン茶とビタミンCサプリを飲み、TikTokを見、ヨーグルト食べ、だった。

TikTokは動けない体にちょうどよかった。

人によってTikTokで何が流れてくるかは違うと言うが、私のTikTokは徐々に社会的スティグマの要素を持つ人たちの投稿が増えていった。というか、TikTok全体に、世の中で色眼鏡を持たれてしまう要素を持つ人たちの日常を公開しやすい何かがある気がする。それがやさしさや包容力から来るものなのか、単にネットリテラシーのなさからくるものなのか、どう判断すればいいのか私にはまだよくわからない。

ネットリテラシーの面だけで言えば、子どもの顔を無邪気にあげている親の多いことに驚いた。以前あるウェブメディアで、子どもの意思を尊重する意味合いでも、ペドフィリア対策の意味合いでも、性別を問わず幼い子どもの顔をネットに公開すべきではないと専門家から聞き、注意喚起するような記事を作った。それは数年前のことで、今はそれが常識になりつつあるような気がしていた、TikTokを見るまでは。そう、そこは完全に無法地帯だった。窓から差し込む光の加減だけでも、その住所を特定できる人がいると聞くのに、動画でこんなにも自分の身の回りを公開して危なくないんだろうかと、まるで知らない人たちのことを心配してしまう。

子どもを公開することはやはり気になってしまうが、TikTok全体を覆う剥き出しな雰囲気、ネットリテラシーのネの字もないからこそのおおらかさに、こう言ってはなんだけど、癒された。昔のインターネットを見てるような気分になるのだ。昔の、というのは、私が中学生とか高校生だった25年前くらいの話。ブラクラとか、グロい画像が急に出てくることも多かった、あの頃の感じ。それがなぜか、新しいはずのTikTokで感じられるのだから不思議だ。先鋭化しまくって本当は多くの人がついていけていない議論が飛び交うTwitterより、TikTokのおおらかさに居心地の良さを感じてしまう。

TikTokにかかれば、チック症も、害虫と暮らす奇人も、35歳差カップルも、ホス狂いも、元受刑者も、病も、死も、なんでも軽くなる。それがいい。自分で書いていて、高みの見物のようで嫌だなとも思う。だけど、私は下品なのだから仕方がない。かつ、いま挙げた人たちはみんな自分の意思で投稿している人たちである。書きながら気づいたが、やはりスティグマを持つ人たちを他者がネタ的に投稿しているものは、私も引いてしまう。それが倫理観なのかどうかはわからないけど、自分にはそこに線引きがあるらしい。

そんなふうに熱中していたのだけれど、風邪が快方に向かうにつれ、TikTokを開いても心が反応しなくなった。なんだったんだろう。

だけど、また具合が悪くなったり、先鋭化した議論に疲れたりしたら、TikTokの海に溺れたい。