この世のすべての人のためには泣けない

「おい、ここ2時間無料なの?!」

無遠慮な大声とともに、おそらく60代半ば(父と同世代)のスーツを着た男性が入ってきたのは、つい2時間ほど前のこと。

 

自宅から歩いて5分のところにコワーキングスペースがある。月に20時間店番をすると自由に施設が利用できる「スタッフ会員」になったので、最近はよくここにいる。(ちなみにおじさんが言ってたのは間違いでなく、初回は2時間無料で利用できる)

 

ここではみんな、黙々と仕事や勉強に専念している。客同士が交流するようなことはまずないし、スタッフに絡むような人もほとんどいない。それぞれがどんな職業に就いているか、どんな資格を取ろうとしているかは知らないけど、おのおのが自分のやるべきことをしている、その空気のなかに身を置いていると、自分もやるべきことをやろうという気持ちになる。

 

視線が交わらない場所ならではの心地よさと安全性が保たれた空間に、無遠慮な大声は必要以上によく響いた。今日店番じゃなくてよかった、とか思いながら、その男性とスタッフのやり取りを横目に見ていた。

 

ところで、去年の初夏から新宿ゴールデン街のバーで週に一回店番をしている。お客さんがお店に入ってくる瞬間の表情や仕草、あと声色などは本当にそれぞれで、その一瞬だけでも人というのはなかなかの情報量を放っているものだなぁといつも思う。

 

それは勘が鋭いとかそういうことじゃなくて、テキストメインのSNSに慣れすぎていることの裏返しであって、純粋に生身の人間の情報量に割といつもわくわくするのだ。その後店内で交わす会話というのは、なんというかその一瞬で感じた印象の答え合わせみたいなところがある。

 

とはいえ、そんな短時間で人をわかった気になるなんて危険だと自戒もするのだけど。常連さんだって、何度も話すうちに少しずつ人柄がわかってくるし、お互いに慣れれば慣れるほど話す内容も変化してくるので、愛は時間だなと思ったりする。

 

ところで60代スーツの大声男性は、入ってきた瞬間の音量のまま自分の言いたいことと聞きたいことを次々に繰り出す。いったん黙ってスタッフの説明を聞く気は無いみたい。

 

「おっさん 声がでかい なぜ」「おっさん 声 音量」とか検索して溜飲を下げようとしたが、いかんせん声がでかいので気になってしまう。入会金が高いだの、俺はパソコンが使えないからこれじゃあ元が取れないだの、なんのかんのと見当違いな文句を言いつづけているので、「階段下りたすぐ目の前に、ベローチェってカフェがあるのでそっちの方が安くておすすめですよ!」と声をかけ…たくはない。かかわりたくない。


だけど一方で、こういう人たちをただただ排除していいのかとも思い、ここの店のコードから見るとどうしても逸脱しているのだけど、居る場所がなくて、会社に行かないときでもスーツ以外に着る服がなく、他人との関係は上下以外にないと思っているような60代の男性について、勝手に思いを巡らせてしまった。あくまでも勝手に。その人の背景は知らない。失礼な妄想かもしれない。でもそういうさみしさ(とあえて決めつける)を、どうも他人事と思えないところもある。人間ができてないので、不快だなって気持ちが圧倒的ではありますが。結局その人は、2時間が過ぎる前に店を後にした。静かで平穏な空間が戻ってきた。

 

ゴールデン街の話に戻る。たかだか半年ちょっとでこの街のことを語るのは畏れ多い。だからあくまでごく個人的な感想だけど、ここは人の弱さを受け入れる場所だと思っている。京都にある本屋さん「ホホホ座」の店主が書いた『ガケ書房の頃』の最後の一文が好きで、いつも心にある。

 

「本屋は勝者のための空間ではなく、敗者のための空間なんじゃないかと思っている。誰でも敗者になった時には、町の本屋へ駆け込んだらいい」

 

店番をしながら、特によく浮かぶ。勝者も敗者も、ひとりの人間のなかに存在すると思っているので、昼は強い人でも、夜にはただの弱い人でいられる場があった方がいい。だけどたまに傷つきすぎた人やなにかが過剰すぎる人が来ると、ちょっと受け入れきれないなということもある。酒場はどこまで福祉の場であるべきなのだろうか、と考えてしまう。

 

以前、「ああこれは、ちょっと本当に無理だな」ということがあって、もうお酒を出さないと告げた人がいるのだけど、それからしばらくはいやな心地が抜けなかった。あの人がジョーカーみたくなったらわたしのせいかもしれない、出禁宣言が最後の一押しになったかもしれない、もう少しやさしくできたかもしれない、だのとうじうじしていた。だけど数ヶ月後に、すべてケロっと忘れたような顔してまたその人が現れたので、世の中は本当に、自分の尺度だけじゃ測れないんだよなぁ、と当たり前のことを実感した。(その時もお酒は出さずにお帰りいただくようお願いした。そのときはもう、そんなに罪悪感はなかった)

 

社会はどんどん分断されていて、コロナがそれに拍車をかけている、という説を見かける。北海道の友人が、「こんなこと言いたくないけど、民度の低い人が感染を広めてると思うんだよ。だれも飲みに行かないし交通量も減ってるのに、マックだけは混んでて満車なのを見てさ」と言っていた。

 

それぞれにストレスを強いられる環境のなか、心のなかの黒いものを解消する手段がないとそういう発想になってしまうのかもしれない。普段そんな物言いをする人ではないから。彼女を非難しても仕方がない気がしたので、「とにかく早く状況がよくなるといいよね」とあいまいな返信をして、LINEのやり取りは途切れた。

 

いつだって、人にやさしくしたり、やさしくされたりしたいのだけど、それはやっぱり自分のなかで範囲を決めないといけないのだろうか。わたしは誰に対してやさしくしたり、されたりしたいのか。両親や兄弟にやさしくできない代わりに、誰かにやさしくすることで、埋め合わせしようとしてるのだろうか。誰にもやさしくされない人のなかの黒いものは、どこに向かうのか。