ほしいのは約束と介入

自粛期間中にメルマガを始めた。毎週1回配信していて、そのときどき起きたことにまつわる雑感を切れ味鈍く書き連ねている。それに加え、その週に食べたものの記録に写真を交えたものも送っている。自炊が特別に得意なわけでもなく、買ったり外食したりしながらの毎日なので、特に誰かの参考になるようなものではない。ただの生活の記録。

 

メルマガへの返信で、誰かの考えを知れるのはとても楽しい。なにか書くと誰かしらが反応してくれるのがすごくうれしく、手ごたえを感じる。それが知ってる人の場合は、よりその人を知ることができてうれしいし、まだ会ったことのない人の場合は、どこかにこんなことを考えながら生活してる人がいるんだと思うだけで心が少しあたたかくなる。

 

そんなことを4か月続けてきたが、このところ少しだけ物足りなさを感じるようになってきてしまった。これはもちろん読んでくれている方のせいではない。わたしが少しずつ本音を書かなくなっているのかもしれない。でもたぶんそれだけでもない。きっと、ほしいものが変わってきたのだ。

 

始めたきっかけは、Twitter上の正しさ合戦に疲れたこと。誰もが見られる場所には書ききれない自分や他人の本音に触れたかったことなんかがある。4月はバイトしてるバーも休業してたので、まあすごく暇だったことも大きな要因だ。

 

バーのバイトは楽しい。決まった時間にその場所に居れば、知ってる人や知らない人が店を訪ねてくれる。時折嫌だなぁと思うこともあるけれど、お客さんとの関係は基本その店に居る限りのものなので、そんなに引きずることもなく、気分の収支はぜんぜん黒字。

 

カウンター内という安全圏から見る限りにおいて、誰かのなにかを「嫌だな」と思うことはむしろおもしろいことですらある。その当人には言わないけれど、自分の好き嫌いがわかるので、喉元を過ぎてしまえばありがたさが残る。変な話、ムカつくことが1つや2つあった方が元気な気もする。ひとりで快適に過ごしていると、あまりの平和さに、何が好きで何が嫌いかすらよくわからなくなってくる。

 

フリーランスで、独身だと、気分に波風が立ちにくい。体調の良し悪しやら、収入の見通しが立たないやら、そんななか税金の通知書が来るとか、家族はどんどん老いていくとかまあ悩みの種もいろいろあるにはあるが、会社員時代に比べたらやっぱり平和だ。それはとてもいいことだけれど、退屈でもある。退屈は不幸ではないが、じわじわと心身をむしばむ。好きなミュージシャンが「退屈を不幸と間違えてしまわぬように」と歌っているが、わたしは退屈に耐えられない。

 

なし崩し的にwithコロナ時代が訪れた感があるけれど、お金がそんなにないので、派手に遊び歩くこともできない。というか、派手に遊び歩いたところで、求めているものが埋まらないことにも気づきつつある。

 

先日ある方と友だちの多寡について話した時、「数というより、むかしは近い関係の人とばちばちにやり合えていた、最近はみんなやさしくしてくれるけど、本気でぶつかることはない」と言っていたのが印象に残った。その時はそうなんですねぇくらいに思っていたけど、その後じわじわと、もしかしたら自分もそういうものを求めているのかもしれないと気付き始めた。だけど、狙ってできるものでもなさそう。

 

Twitterのbioの頭に「やさしくしてやさしくされたい」と書いている。それはいまもそう思っているんだけど、やさしさというよりただのなれ合いになりそうな関係がいくつかあって、自然と距離を置くようになった。いまは心地良い距離をとってくれる人たちに恵まれてとてもありがたい。メルマガで自分の近況を返信してくれる人たち、お店に来てくれる人たち、そして一緒にごはんを食べたり演劇を観に行ってくれる友だち。大げさでなく、そういう人たちのおかげで生きてるなぁと感じている。

 

その一方で、ばちんばちんにやり合える、テニスの打ち合いみたいなやり取りをしてみたい気もしてきたのだ。なれ合わず、お互いに個として存在していて、助け合う関係。口で言うのは簡単だけど、そういうものが成り立つとしたら、強烈に憧れる。みんながみんな理想の関係というわけではないけど、たとえばコンビでやってる芸人みたいに、自分の存在や相手の存在が、分かちがたく作用しあうような。

 

関係が不均衡だと、どちらかは言いたいことを言えるが、どちらかはひたすら我慢を重ねた末にどこかで爆発したり途切れたりするので、そういうのはもういやだ。対等という言葉が適切かわからないけど、少々の食い違いくらいでは壊れない関係がほしい。恋愛なのか、仕事なのか、なにを接着剤とするかはわからないけれど。

 

自分がそういう関係をこれまで築けなかった理由は、他人との距離をうまく測れず、近すぎたり遠すぎたりしてしまうことにある。嫌われる恐怖が根底にあるせいか、他人の行動に対する認知が歪んでいるようだ。常に他人にジャッジされている気がして、そんな気がない人に対してもつい及び腰になってしまう。あるいは、その人のすべてを肯定しなければ、と力んで自分の本心を押し殺してしまう。恐怖を乗り越えたい。

 

くだんのミュージシャンはこうも歌う。

「強くなるんだ 愛されるために 

一人で生きるためじゃない 好かれたいんじゃない 

憎まれてもいい 愛されたいんだ」

いまはこんな気分だ。

 

自由になりたくて、ひとりでいろんなものから逃れてきた。逃げる必要があったので仕方ないが、その先は自分で見つけていかなければならない。そしてきっと、いつかはどこかに根をおろすよりほかないのだ。なにがしかの覚悟をしない限り、得られないものがあるだろう。

 

36にもなっていまだにそんな調子かと思うと嫌になるけれど、去年読んだ『愛という名の支配』のなかで田嶋陽子が「46になってようやくあらゆる呪縛から逃れることができた。だからその倍は生きることにした」と書いていて、勇気が湧いた。

 

情けなさやふがいなさを感じるたび、田嶋さんのその言葉を思い出す。一般に比べて未熟に思える頼りない自分を、やたらに否定しなくてもいいように思えてくる。周りに合わせて大人ぶっても仕方ない。未熟さと向き合うほどには元気になった。

 

20代は誰かに仕返しするみたいな気分で働いて、30代になってそのやり方に限界が来て、なんやかんやを経ていまひとりでいる。1年くらいなんとなくで過ごして、まだまだ行きつ戻りつしている感もあるが、そろそろ放電が終わりに近づいている気配もある。約束も介入も避けて暮らしてきたが、わずらわしさが恋しくなってきた。

 

寂しさを埋めるのには、SNSやメルマガではもう足らない。いやな思いをするリスクを背負って、どこかに出かけたい。誰かと約束がしたい。そんな気持ちも、もしかしたらすぐに変わるかもしれない。だけど本当はずっとそんなことを思っていた気もする。そしていざそんな段になったら投げ出すかもしれない。だけど、変わるからこそ書き留めておきたい。そんな気分だ。