2021年1月1日(金)/産まれたらもう無力ではない

年明けの最初には、まちがいなくおもしろいものを観たい。去年の元旦は、先行上映されていた『パラサイト』を観た。自分の好みにぶっ刺さったかというとそうでもないけれど、すごく勢いのある映画だから、あたらしい年の一本めにふさわしいような気はした。今年は、リバイバル上映中の『ハッピーアワー』を一本めに選んだ。友だちやネットの評判を聞く限り、きっと自分も好きだろうと思ってずっと観たかった映画。

 

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全3部で、上映時間5時間17分と聞くとたじろぐけど、「まだまだ観ていたかった」という声を聞いていて、それを信じた。実際に観終わったとき、まだまだ観ていたかった。

 

中心となるのは、自分とおなじ37歳の女性たちだった。夫や元夫との関係にしこりを抱える、友人同士の女性4人。あらすじを書こうとしてみても、それをしたところでこの映画でなにを感じ取ったのか表せないだろう。ストーリー展開も当然すばらしいのだけど、そういう「わかりやすさ」の周辺にあるものがこの映画ならではの豊かさだ。なにを感じ取ったのか、書きながら考えてみる。

 

まず、出てくる人物たちが、そこにたしかに生きているようだった。誰ひとりとしてストーリーを進めるために都合よく配置された「キャラ」として描かれない。「37歳の主婦ってこんな感じでしょ」「理系の学者の夫ってこうでしょ」という固定観念から自由になって人間を捉えている。ある角度から見ると「おかしな」人でも、別の角度で見ると「まともな」人に見えてきて、血が通った実際の人間とはそういうものだと思わされる。

 

主人公たちが参加するワークショップやトークイベントなど、普通の映画なら短く編集しそうなシーンも長いまま見せる。そのせいか、観ている側も映画のなかの人物と同じ時間を過ごしているように錯覚する。ストーリーのために場面があるのではなく、流れる時間そのものを丸ごと味わうようなつくり。長いまま見せることが、わかりやすい「決めつけ」に対抗する手立てにも思える。

 

私たちは生活する上で、言葉から逃れられない。しかし、それぞれの人のなかには、言葉というラベルを貼る以前の無数の感情が発生している。言葉が貼られない感情の多くは、見過ごされたまま忘れ去られる。

 

この映画はそういった、本人でさえ見過ごすような、感情の芽を細やかに映し出している。ひとりひとりのなかに発生した言葉以前の感情が、人に伝わったり作用し合ったりしているのがわかる。実際の世界でも、人は人に影響を与え合いながら生きているのだ。

 

映画のなかの人物たちを観ながら、人ひとりが決して無力ではないことを、むしろ無力になんてなり得ないことを悟る。そんなふうに、人が生きていることを肯定する気持ちを感じるせいか、物語のなかで起こる悲しい出来事とは裏腹に、観終わったあとには確かなあたたかさに包まれていた。

 

心底良いものを観たあと、すぐ電車に乗ることには抵抗がある。作品の余韻に浸っていたくて、ぽかぽかした気持ちのまま、イメージフォーラムから原宿駅まで歩いて帰った。