2021年2月23日(火)/いまさらですけど花束雑感

今日花束を観たという人から連絡があり、その流れでお茶をして、その最中はとても楽しかったのに、そのあとになぜかやっぱり悲しい気分になってしまうのであった。悲しさというか不安に近く、自分の心の弱さが吹きさらしになってしまうような感じ。人によって着眼点がぜんぜんちがうので、話すたびにいろんな切り口が見えてきて興味深いのだけど。

 

もうこの映画については直接人と話もしたし、クラブハウスでいろんな人が話しているのを聞きもしたので、もはや3週間前に自分が観た直後真っ先にどう感じていたのかわからなくなりかけているのだけど、先日、会社や社会への過剰適応を切り口にして話しているのを聞いてすごく納得するところがあった。わたしがこの映画について考えると不安な気持ちになることとリンクしているようにも思う。

 

いまはふらふらしているので信じてもらいにくいのだけど、自分の20代を振り返るとほとんど社会に適応することだけを考えていたと言ってもいいほど、社会、というよりもっと言うと会社に居場所を作ろうと頑張っていた。会社に入る前の段階、就活を前にした時も、口では嫌だと言いつつ、わりと前向きな気持ちですらあったのを覚えている。いい加減経済的に自立したかったし、「社会に恩返ししたい」みたいな殊勝な思いすらあったほど。いま思えば不気味なくらい健気だが、反抗期を経ないまま大人と呼ばれる年齢になってしまったことに関係する気がしている。なお、わたしの反抗期は35歳になってやってきて、いま終わりかけ。

 

自分が何に向いているのか、何ができるのかがわからなすぎたので、幅広い業種の会社を受け、内定をもらったなかでも、そこまで無理せず働けそうだと思った会社に入り、その会社のルールに従い、そのなかを流れる空気に染まり、あらゆるものを明け渡していった。と言うと主体的にそうしたようだが、実際はもうそうせざるを得なかったという感じに近い。就活以降に染み付いた適応癖はいまでも抜けきらない部分がある。会社に適応することで自分をすり減らすのはもうたくさんだという思いが強いので、結果としていまはふらふらしているのだが、これはこれで寄るべなく辛く、しかもこの辛さはなかなか理解されにくい。

 

それはともかく、じゃあなんで自分をすり減らしてまで適応しようと頑張っていたのかといえば、結局のところ自分に自信がないというところに行きついてしまう。自分が感じたこと、思ったことに自信が持てない。それであればもう、社会の側、会社の側に合わせて生きた方が不安を感じなくて済む部分がある。(あくまで部分なんだけど)

 

そして、自分が感じたこと、思ったことに自信が持てないと言うのは、いまだにそうなのだ。「正しさ」が吹き荒れるこの頃はなおさらそう思ってしまう。何かを思っても、素早く頭のなかでツッコミが入る。自分の思いを自分のなかですら大切にできない。しかし、「正しさ」ですべて裁かれる風潮があるなかで、何かを「好き」と言う気持ちは自分を守るよすがになりうる。だから、映画のなかの2人も映画や小説や漫画を好きだったのだと思うのだけど、作中ではそれらが単なるアイテムと化しているのが気になった。というか、単なるアイテムとしてしか描かれない点もまた自分の傷つきポイントなのかも。それどころか、就職後の麦が、それまで好きだったものを好きだと思えず、パズドラ自己啓発本にしか関心を持てなくなってしまう描写もある。好きなものは心の防波堤だと思っていたいので、もしここまで気持ちが社会に侵食されているとしたらかなり悲しいし、描き手側の視線に「サブカル」のようなものを心のよすがにするのは幼稚な人間のやること、と指摘されたように感じたのかもしれない。自分の被害者意識が強すぎるんだろうか。

 

なんの話だったかよくわからなくなってきた。でも今日話してみて、少しずつ整理がついてきたようにも思う。わたしが10歳若いときに観ても、10歳年をとってから観ても、いまとは別の思いを持ちそうだ。せめて10年後に振り返った時に「あんときはやけに傷ついたな」と、もう少し余裕ができているといいのだけど。