「穴」と「袋」からの脱却〜映画『あのこは貴族』

映画『あのこは貴族』を観た。

anokohakizoku-movie.com

松濤の良家に生まれ、そのまま実家で暮らす女性(門脇麦)と、富山の一般家庭に生まれ、猛勉強の末に慶応に合格して上京した女性(水原希子)。境遇の異なる2人の人生が、東京でひととき混じり合うお話。

 

階級のちがう2人の人生をクロスさせる役割を担うのが、高良健吾演じる、日本のなかでもトップオブトップに君臨する上流階級の男性だ。そんな家柄のド金持ちに接したことなんてもちろんない。しかし、彼が生まれた家にある、純度100%のガッチガチな家制度的価値観には既視感がある。この純度が薄まった世界に、わたしたちは暮らしている。この人たちがトップに君臨し続ける限り、わたしたち庶民はその薄まった価値観のなかで生きざるを得ない面があるんじゃないだろうか。この家は、政治家の家系らしく、おそらくは自民党所属だと思う。劇中に「子どもには、太郎とか一郎とか、人が書きやすい名前をつける」っていうセリフがあって、わ、あの人この人!と思い出し(高良健吾の役名は「幸一郎」)、生まれた瞬間から投票用紙を意識される運命というのも凄まじいものがあるなと思った。

 

あらかじめ家に決められたセーブポイントをこなすプレッシャーに晒される男性も辛いだろうが、その男性に振り回される女性の側も悲惨だ。

 

峰なゆかさんとの対談で田嶋陽子さんが話していたことを思い出す。「あえてひどい言い方になるけど」と前置きした上で、「男にとって、女は『袋』か『穴』か」と。つまり、家を継ぐ子どもを作るための「袋(=子宮)」を持った女か、欲求を満たすための「穴」を持った女か。この映画の場合は、門脇麦演じる良家の娘が「袋」で、水原希子演じる富山出身の女性が「穴」扱いされる。

 

これまでのドラマや映画なら、両者は衝突していただろうが、そうならないのがこの映画の新しさだろう。やや説明的すぎるセリフではあったが、石橋静河演じる、バイオリニストの女性が言っていた通り、これまで女性は男性たちの都合によって分断させられ、敵対関係に置かれてきた背景を踏まえ、1人の男性をめぐってもなお、2人はお互いの立場をさりげなく尊重する態度をとった。

 

それぞれが「穴」と「袋」から脱却するのに有用だったのは、お互いがそれまでも大切にしてきた友人との関係であった。主人公2人が熱っぽく結託して高良健吾をとっちめる、みたいなわかりやすさがないのもよかった。本来の敵は彼ではないのだから。

 

女性の自立、というと華々しい。しかし実際に、自分が依存せざるを得なかったものから手を離すのにはあらゆる困難がつきまとう。そこにある事情はどれもまったくもってキラキラしていない。かといって、ドロドロだけかというとそうでもない。女性が自立して生きることへの困難を見据えながらも、爽やかな希望を残すラストだった。

 

2021年3月4日(木)/痛みをともなうエトセトラ

人はそれなりの挫折を通らないと、自分を省みることができないものなのでしょうか。したの記事を読んで思ったことのひとつ。

 

cakes.mu

 

痛い目を見ないと人は変われないんでしょうかね。自分に関して言えば、長く勤めた会社の退職や、付き合っていた人の安い裏切り行為など、いくつか経験してきた「痛い目」が結果的には自分をマシな方に導いてくれたところがある。もし、そういうことを通過しないままでいたら、自分はいまよりもずっとクッソだったと思う。

 

しかし、この幡野さんや大熊さんのように、一度は自分の加害性に目を向けた経験のある(はずの)人であっても今回のような問題を起こすのだから、となると今後も「痛い目」を通してでないと自分を「マシ」に保てないのだろうか。そう思うとなかなか辛いものがある。痛みを伴う改革は、そう何度も経験したくない。ちょっとずつ微調節して、大きな「痛い目」を回避できるといいんだけど、そういうのはどうやったらできるのか。いつもいつも、自分で自分を微調整するなんてこと、できるんだろうか。そもそも、その物差しというのはどこにあるんだろう。

 

と、「痛い目」を恐れる一方で、やっぱり心のどこかで、自分が変わる機会を求めている気がしないでもない。人が出会って別れる映画に妙に心惹かれてしまうのも、その辺が関係していそう。言ってみれば、別れにカタルシスを覚えてしまっている。現実でも、フィクションでも。その辺りはなんかもう少し考えてみたい。なぜわたしは「別れ」が好きなのか。

 

あと、この人の連載に限らずに感じることだけど、多くの人生相談ものは、相談する/される関係が完全に上下になっていて、その世界観がやさしくない。悩みを相談する側が「弱者」みたいな扱いになってるのが、そもそもなんかちがう。相談される側は、言葉を繰るのが上手なだけな場合もある。相談は大喜利じゃないと思うんだけど。

 

そんなことを考えていたら、じゃあひとつのお悩みに対して、いろんな種類(?)の人たちが答えるような人生相談ものがあればいいじゃんと思ったんだけど、そういうのはもうありますか? ありそうですよね。ひとりの人に、たったひとつの正解を求めるのがよくない。みんなが思い思いのことを言って、そのバラバラのなかから、答えみたいなものを考えていくのがいいと思うんだけど、どうすか。

 

2021年3月2日(火)/夢のよう、っていうか実際夢だった

日曜のラジオは夢のように楽しかった。始まる前に司会の塚越さんが「誰かしらが必ず受け止めるんで、とにかく思ったことを発言してみてください」と言ってくれたり、倉本さんが「どんどん遠慮せずいっちゃって大丈夫ですよ」と背中を押してくれたり(あとラムネをくれたり)したので、振り返ると言葉足らずなとこも多かったけど、それでも思ったことを話すことができてよかった。スタッフの皆さんもいろいろとフォローしてくださりありがたかった。話したいことを受け止めてくれる場というのは、ものすごく貴重なものに感じられます。本当はそういう場があちこちにあるといいのに。

 

radiko.jp

他の出演者のみなさんの感想や考察、リスナーの方々からのメールがどれも興味深く、なかでも山本さんが指摘していた、フェミニズム本が登場しないという視点は自分にはぜんぜんなかったものだった。確かに、『82年生まれ、キム・ジヨン』は2018年に出ていて、その後もフェミニズムにまつわる本が多く出版されているので、本好きの絹がそれらを全く通ってないことはなさそう。西森さんがおっしゃっていた、「花束は日本版キム・ジヨンみたいな側面があるから、この映画の中にキム・ジヨンが出てこなくてよかった。出てきたら並列の存在になり得ないから」という指摘にも、ななななるほどー!となった。麦くんが属していた文化系コミュニティのホモソ加害も、ぼんやりとは感じていたけど、ここまではっきり認識できていなかった。社会に出ると性役割規範が強まる、という点に留まっていたなー。

 

あと、倉本さんが放送中に見つけた感想のなかに「もっと自分の体験を語ってほしい」というものがあった。趣味のあう人は恋愛対象になるのか、という話を振られたときに話せればよかったんだけど、なんか曖昧なことしか話せず後悔している。なので、とりあえずその一部をここに書いておきたい。ちなみに、放送中は話の流れにあうメールを探して紹介する、というミッション(?)もあり、これが思った以上にむずかしかった! だから、それをやりつつTwitterで感想を調べる倉本さんのマルチタスクっぷりはやばい。

 

というわけで自分の体験。最近まで忘れていたけど、割と「花束みたいな恋をした」に近いことを自分も経験していた。就活も終わってのびのびしていたころ、新宿かどこかのカフェバーでやっていたDJイベントで(なんでそんなんに行ったのか全く思い出せない)知り合った人と仲良くなったきっかけはまさに、趣味が合う(ような気がした)からだった。いま考えたら身の毛もよだつような話だけど、「えっ、『クワイエットルームへようこそ』観てるなんて、詳しいね!」みたいなことを言われた記憶があるが、この発言を受け入れられるのが若さなんだろうか。それで割とすんなり話が進んで付き合うことになったが、翌年春にその人は大学院に進学、わたしは就職をした。そのころは会社のことを頑張るのが楽しかったので、自分の価値観がどんどん会社寄りになっていき、「なんで電話に出ないの」とか言ってくるその人をめちゃくちゃ煙たく感じてしまうようになり、ほどなくして別れた。ほんの数ヶ月の付き合いだったし、その後いっさい連絡も取っていない。一度だけ、新宿のタワーレコードに女の子といるのを見かけたきりだ。

 

ラジオでも、自分と趣味が合いすぎる人は気持ち悪いと思ってしまうかも、と話したが、社会人になって以降、そしてつい最近までは、むしろ自分よりも文化的(?)な何かに詳しい人や実際に何かをしている側の人に惹かれる傾向があった。だから、絹がイベントプロデューサーのオダギリジョーに惹かれる気持ちがわかるのだ。これはかなり醜い話だが、いま振り返ると、自分「以上」の人を好きになるのは、憧れという綺麗な言葉に収まるものではなく、その人の築いてきたものを手っ取り早く自分のものにしたいという、恥ずかしいほどにやましい気持ちがなくはなかったような気がしている。最近その傾向が薄れてきたのは、つたないなりにも自分自身で地道にやってくしかないし、その方が実は楽しいと少しずつ思えるようになってきたからかもしれない。自分でやってこうと思えるようになりつつあり、そうなると今後どういう人に惹かれていくんだろう。まだわかっていない。

 

と自分語りはこの辺にしといて、あらためて今回のラジオ出演は本当に楽しかった。深夜ラジオを聴き始めた高校生のころから、曲紹介とリスナーはがき紹介は自分のひそかな夢だったので、それもうっかり叶ってしまった。しかもTBSラジオで。何か夢が実現したときに使いがちな「◯◯の頃の自分に教えてあげたい」みたいな構文はなぜか苦手に感じているけど、その構文に当てはまる気分にもなるのだった。

 

2021年2月28日(日)/感情をすり減らさない労働

日記でもあれこれ書いてきた『花束みたいな恋をした』についてラジオで話すことになった。あと数時間したらそのために家を出なくちゃならない。しかしそのあと数時間の過ごし方がわからない。ソワソワソワ。そんな時こそ日記を書いて気持ちを鎮めよう。本当ならラジオの予習的なことを、時間の許す限りやっておいた方がいいのだろうけど、知識的なことは他のゲストの方々に敵うはずがない。むしろそういう方々に色々伺うことを楽しむつもりでいこう。

 

昨日は、久しぶりにバーの店番をした。1月に入ってすぐに緊急事態宣言が出て、かれこれ2ヶ月お店を休業していた。バーなんてなくたって、人は死なない。だけど週に1〜2回、あの場所でたあいないおしゃべりをすることが、他の仕事や生活をするための調整弁になっていたことを、店番がない日々のなかで痛感した。

 

そんなことを考えていたちょうどその頃、水曜にお店に入っているいっちゃんがお店のグループラインに「店がないのに慣れてきたけどさみしい」と書き込んでいたので、「わたしも!」と乗っかり、その流れで昨日時間をくり上げして一緒に店番をすることになった。いっちゃんは人を思いやりながら、気持ちを素直に伝えることができる人で、そういうところにちょこちょこ助けられている。

 

バーカウンターに立つことはとても楽しみだったけど、しばらく音沙汰のないなかで、急にお店を開けたところでお客さんは来てくれるかなーと不安もあった。でも、いざ開けてみると満席の時間も多く、終始にぎやかな楽しい5時間だった。そのにぎやかさのなかには、決してポジティブなだけではないにぎやかさもあったけど、そういうことも込みで、何か足りなかったものが充填されていく気分になった。オーナーやほかの曜日担当の方々も来てくれて、お店がそこに存在することの意味の大きさを感じてしまった。

 

3/7に緊急事態宣言が明けてからも、飲食店のみ時短要請が続くという報道を見た。20時までの営業が21時までに変更になるとかなんとか。バーは、平日なんかは特に仕事帰りに寄るものだから、19時〜21時の営業では微妙すぎる。だからオーナーも、お店を再開するかどうか悩んでいるみたい。ワクチンが行き渡らない状況で規制を解いたら、そりゃまた感染が増えるのは目に見えている。だから、感染を考えたらどう考えても閉めておいた方がいいに決まってるんだけど、昨日開けてみて、自分にも膿が溜まっていたのを感じたし、お客さんもそれぞれにいろんな気持ちを抱えているようだった。

 

たまにバーで店番をすることについて、「よくそんな感情労働を……」という反応をもらうことがあるけど、自分はここであまり無理してまで人に合わせることをしないようにしているし、人から聞く話は自分の領域にないことであっても興味深いものも多く、むしろ話を聞くのは楽しい。バーカウンターのなかにいる自分がだれより店に助けられているのだけど、一見助けている風情を装えるのもまた、バーカウンターのなかにいるからこそのささやかな特権かもしれない。

2021年2月26日(金)/平成もアーカイブしてほしい

今日の『俺の家の話』、いつもにまして盛りだくさんですごかった! 見どころ多くて、その度に興奮させられて、おもしろすぎて疲れてしまった。22時からの最新回を見る前に、21時から前回をおさらいするのがルーチンになってるけど、今日の6話は2回観るだけじゃ足りないかもしれない。

 

この、同じものを何回も観るシステム(?)は、コロナによる個人的な変化のひとつです。いままではおもしろいものを何回も観るより、新しいものを観るのを優先していたんだけど、演劇がオンラインになったこと、その演劇をレポートするために複数回観たことがきっかけになって、演劇にかかわらず気になるものは何回も観る習慣ができました。

 

当たり前だけど、何回も観ると一回観たときより多くのことに気が付きます。逆にいうと、一回だと見落としが多すぎるのに気がついて、いままでなんてもったいないことをしていたのか……と作り手の人たちに申し訳ない気分にすらなったのでした。演劇が劇場で観られるようになったら、また数たくさん観たい派に戻っちゃう気もして、もったいないような。演劇にはリピート割はほぼないので、何度も観るのは金銭的にもむずかしいし、その一回性こそが本質って感じもあるんだけども。オンラインの演劇が一年でかなり発達したけど、以前のように劇場で演劇ができる環境が戻ってきた時どうなるんだろう。なんか、ハイブリッドな形態とかが生まれるんだろうか。完全にこっちの都合だけをいえば、劇場で観ておもしろかったものを、配信で少し安めにもう一回観られたらすごく良い。

 

話戻りますけど、今日の長瀬の歌のシーンは、生まれ持ったスター性、アイドル性が爆発していましたね。こんなに人を惹きつける才能のある人が、裏方になりたいと思ったのはなんでなんだろう。ジャニーズっていままでどういう組織で、いまどういう組織なんだろう。

 

SMAPの歌を聴きたいことがちょこちょこあって、なのにサブスクにもiTunesのストアにもないから、仕方なくYouTubeに上がってるのを聴いてる。SMAPが残してくれたたくさんの曲たちに気軽にアクセスできないなんて、日本の平成ががっぽり失われているようなものじゃないですか。SMAPのことを考えるとき、真っ先にあの不可解な謝罪映像を思い出してしまうのも悲しい。

 

そういえば今日、小室哲哉とKEIKOの離婚成立のニュースも流れていましたけど、こうやってひとつひとつ平成が終わっていくのか。令和発のポップカルチャーにも夢中になれたらいいのだけど、平成に生まれたものを引きずって生きていくような気もしている。平成のあれやこれやも、アーカイブとして残しておいてほしいものです。

2021年2月23日(火)/いまさらですけど花束雑感

今日花束を観たという人から連絡があり、その流れでお茶をして、その最中はとても楽しかったのに、そのあとになぜかやっぱり悲しい気分になってしまうのであった。悲しさというか不安に近く、自分の心の弱さが吹きさらしになってしまうような感じ。人によって着眼点がぜんぜんちがうので、話すたびにいろんな切り口が見えてきて興味深いのだけど。

 

もうこの映画については直接人と話もしたし、クラブハウスでいろんな人が話しているのを聞きもしたので、もはや3週間前に自分が観た直後真っ先にどう感じていたのかわからなくなりかけているのだけど、先日、会社や社会への過剰適応を切り口にして話しているのを聞いてすごく納得するところがあった。わたしがこの映画について考えると不安な気持ちになることとリンクしているようにも思う。

 

いまはふらふらしているので信じてもらいにくいのだけど、自分の20代を振り返るとほとんど社会に適応することだけを考えていたと言ってもいいほど、社会、というよりもっと言うと会社に居場所を作ろうと頑張っていた。会社に入る前の段階、就活を前にした時も、口では嫌だと言いつつ、わりと前向きな気持ちですらあったのを覚えている。いい加減経済的に自立したかったし、「社会に恩返ししたい」みたいな殊勝な思いすらあったほど。いま思えば不気味なくらい健気だが、反抗期を経ないまま大人と呼ばれる年齢になってしまったことに関係する気がしている。なお、わたしの反抗期は35歳になってやってきて、いま終わりかけ。

 

自分が何に向いているのか、何ができるのかがわからなすぎたので、幅広い業種の会社を受け、内定をもらったなかでも、そこまで無理せず働けそうだと思った会社に入り、その会社のルールに従い、そのなかを流れる空気に染まり、あらゆるものを明け渡していった。と言うと主体的にそうしたようだが、実際はもうそうせざるを得なかったという感じに近い。就活以降に染み付いた適応癖はいまでも抜けきらない部分がある。会社に適応することで自分をすり減らすのはもうたくさんだという思いが強いので、結果としていまはふらふらしているのだが、これはこれで寄るべなく辛く、しかもこの辛さはなかなか理解されにくい。

 

それはともかく、じゃあなんで自分をすり減らしてまで適応しようと頑張っていたのかといえば、結局のところ自分に自信がないというところに行きついてしまう。自分が感じたこと、思ったことに自信が持てない。それであればもう、社会の側、会社の側に合わせて生きた方が不安を感じなくて済む部分がある。(あくまで部分なんだけど)

 

そして、自分が感じたこと、思ったことに自信が持てないと言うのは、いまだにそうなのだ。「正しさ」が吹き荒れるこの頃はなおさらそう思ってしまう。何かを思っても、素早く頭のなかでツッコミが入る。自分の思いを自分のなかですら大切にできない。しかし、「正しさ」ですべて裁かれる風潮があるなかで、何かを「好き」と言う気持ちは自分を守るよすがになりうる。だから、映画のなかの2人も映画や小説や漫画を好きだったのだと思うのだけど、作中ではそれらが単なるアイテムと化しているのが気になった。というか、単なるアイテムとしてしか描かれない点もまた自分の傷つきポイントなのかも。それどころか、就職後の麦が、それまで好きだったものを好きだと思えず、パズドラ自己啓発本にしか関心を持てなくなってしまう描写もある。好きなものは心の防波堤だと思っていたいので、もしここまで気持ちが社会に侵食されているとしたらかなり悲しいし、描き手側の視線に「サブカル」のようなものを心のよすがにするのは幼稚な人間のやること、と指摘されたように感じたのかもしれない。自分の被害者意識が強すぎるんだろうか。

 

なんの話だったかよくわからなくなってきた。でも今日話してみて、少しずつ整理がついてきたようにも思う。わたしが10歳若いときに観ても、10歳年をとってから観ても、いまとは別の思いを持ちそうだ。せめて10年後に振り返った時に「あんときはやけに傷ついたな」と、もう少し余裕ができているといいのだけど。

2021年2月22日(月)/豚の餌でもうまければ

ダイエットについて調べ始めると、多くの人たちがオートミールを食べているのを早々に知るわけですが、どうみてもうまくなさそうなので検討するまでもなく圏外扱いしていました。が、先週金曜献血後に寄ったベローチェで、隣の席にいた女性がオートミールの話をしているのを聞いて、なぜだか急にイケるかもと考えが変わりました。帰りにまいばすけっとのシリアルコーナーの隅っこに並んでいたオートミールを1袋買い、顆粒だしとふりかけとお湯をかけて食べてみたらふつーにお茶づけじゃないか!もう白飯いりません、わたしオートミール食べるんで!とたちまちハマってしまいました、が、こんなふうにハマるってことは飽きるのも早い予感。オートミール生活今日で4日め、いまのところは飽きておらず、いろんな食べかたを楽しんでいます。ちりめんじゃことかたまごとか乗せてからちょっとお出しをかけて食べれば、もうずっとこれでいい気がしてくる。思うに、オートミールって名前の響きが美味しくなさそうなんで、もういっそ雑穀米と名乗って、もっとメジャー路線に乗ってほしい。

 

それにしても、今晩のわたしの買い物、オートミール、ヨーグルト2パック、バナナ、オリゴ糖、わかめとオクラのサラダって、意識高すぎて腸活偏差値65。美味しいもの食べたい欲よりも胃腸を整えたい欲が上回って、結果めちゃくちゃナチュラル嗜好みたいになっちゃう。でも、普通のご飯を食べるとそれだけでお腹ポコポコして不調になるのだから仕方ない。っていうか、この歳でこの胃腸って大丈夫なのか。あと数十年同じ胃腸でやっていけるのか。食べ物に飽き足らず、イージーファイバーみたいなやつまで飲み始めてる。そんくらい頑張ってようやく口のなかがムカムカしないって感じなんで、ほんと大丈夫なんか。

 

しかし、まだマイナスがゼロに近づく兆しが見えたくらいでしかなく先は長い。そのうえ日々老いている。それなのにちょっと改善されたら飽きてしまいそうで、それがだめなのよね〜。腸活とかいうと一時的な活動感があるし、腸にいいものをばっかり食べしてればいいような気もするけどそんなことでもなく、どうやら全般的な生活習慣を整えるということでもあるようので、ひたすら地道なことでしかない。言ってみたらつまんない。でもそのつまんなさに耐えて、とりあえずあごまわりの吹き出物をなくしたいしお腹もぺったんこにしたい。見た目をマシにしたい欲が食への欲や不規則な生活をしたい欲を上回りつづけるといいのだが、これはもうホコタテってやつ!

 

2021年2月20日(土)/献血したらやさしくしてくれた

なんか忙しい。仕事というよりテレビや配信を見るのに忙しい。TVerで配信されないお笑い番組、終了日の迫った配信、リアタイしたいドラマなどなど。自分は咀嚼するのに時間がかかるので、詰めてあれこれみるのが苦手。だから最近はおもしろいものが多くてうれしい反面、あぷあぷしてもいる。

 

そんなわけで余裕がなく、いつもはタブレットで書いているこの日記も、いまはふとんのなかでiPhoneから打っている。

 

昨日、6年ぶりに献血をした。1年越しの願い。去年の春先にみた舞台で、献血をすると性欲が減るという、うそだかほんとだかわからない話が出てきたのがきっかけで、その日にその足で新宿の献血センターに向かったのだけど、混んでいて2時間待ちだったのであきらめた。その後もコロナが気がかりだったり、時間がなかったりして出来ずじまいのままだった。昨日は15時すぎに取材が終わって、もう何もしたくないけどそのまま家に帰るのも早いし、という気分になり、そこにピタッと献血がハマった。今日は体調もいい。

 

いっときは献血センターが入るビルの周りに大きな看板が出ていたりスタッフが献血を呼びかけていたりしているほど血が足りなかったみたいだけど、今日は看板すら出てなくて静か。予約せずにそのまま行ったら、それほど待たずにできるというので、400ml抜いてもらうことにした。

 

献血センターの時間の流れ方は独特で、スタッフもまったりとやさしくて、居心地がよかった。検査のために血を抜いてくれる看護婦さん、話しかけてよさそうな隙があったので、いまはもう血が足りているのか聞いてみたら、やっぱり東京は血が足りているそう。その代わりに地方は集まっていないので、東京から地方に血を送っているらしい。

 

夕方のニュースを見ながら15分くらいかけて400mlを抜き、立ち上がったらほんの少しだけ立ちくらみがした。それを伝えたら、看護婦さん2人がかりで座るよう促してくれたり、ぬるいレモンジュースとおせんべいを持ってきてくれて、血をあげただけでこんなにやさしくしてくれるんですか。ずっとここでお菓子食べていたい。

 

献血したあとは早く動いてはいけないので、みんなお茶を飲んだりお菓子を食べたりしてゆったりしてるのもよかった。一般社会から切り離された空間。

 

性欲が減ったかどうかはわからないけど、献血センターのやさしい空間に癒されはした。またきたい。次にきたら、ひとりひとりに渡されるブザーの呼び出し音がなんで「名もなき詩」なのか聞きたい。

2021年2月17日(水)/遅延型アレルギー

最近よくリンゴを食べる。10年近くアレルギーで避けていたのに、去年なんとなくいける気がして食べてみたら、喉が詰まる感じも目が痒くなる感じもなかったので、仕組みはわからないけど治ったのだと思っている。しばらく食べていなかった分、うれしくてつい食べてしまう。特にこの数週間は1日一個食べているし、今日は帰りにジューススタンドでアップルティーを買って飲んだ。

 

駅のホームでごろごろと実の入った美味しいアップルティーを飲みながら、調子に乗ってたくさん食べたり飲んだりしていたらまた発症したりして、と思った。そんな矢先、こんなツイートが目に入った。

坂井さんが書いているように、これまで自覚してきたアレルギーは、食べた直後に症状が出ていたからすぐわかったけど、遅延型アレルギーの場合しばらく経たないと症状が出ない上、一般にいうアレルギー症状ともちがうみたい。知らなかった。 

 

あと、寝ているときに息ができなくて目が覚めるけど睡眠時無呼吸症候群ではないと診断されていて、食物アレルギー陽性だった食べ物をやめたらそれも改善されたというところ。わたしは睡眠時無呼吸症候群の検査をしていないのでわからないけど、寝ているときにいきなり息苦しくて目が覚めることはたまにある。

 

そんなわけでアレルギー血液検査に興味津々。と言いつつ健康系の話をTwitterで鵜呑みにしていいのかなと思ってたらリプライにやっぱそんな指摘がついてるな。だよな。しかしこの手の話に魅了されてしまうのは心身の不調の理由を突き止められたら、人生が好転するのでは、という期待を捨てられないわたしの弱さよ。 

2021年2月16日(火)/好き嫌いで決めちゃだめですか

地上から20cmくらい浮いて、そのまますいーっと移動する夢をみた。移動してる場所はRISINGSUNの会場内。実家から会場は車で15分の距離なんだけど、夢のなかではさらに近くて徒歩15分の設定だった。移動が楽で、家もすぐ近くならまたフェスに行きたい。その仮定より何より、そもそも開催されるのかって話なんだけど。

 

***

 

小木さんが叩かれているらしいけど、あんまり追う気がしない。

 

自分のなかにはたくさんの矛盾がある。岡村さんがまずい発言をしたとき、やべえこと言ってんなと思ってはいたけど、深夜ラジオ特有の空気というのはやっぱりあるので、普段聞いてない人がやんややんや言うことに違和感がないわけでもなかった。それでもやっぱりどちらかと言えば叩く側の気分だったのは、岡村さんをそこまで好きなわけではないからだと思う。一方小木さんのことはけっこう好きなので、擁護に寄っているどころか、話の経緯を追う気にもなれない。みんなが叩きまくる西野だって、してることがやばいってのもあるけど、やっぱり根本的にあの器用さが気に食わないからなんじゃないかと思うし。

 

空気階段がいま以上に売れたとき、過去のラジオやコントをやんややんやいう人が出てくるかもしれない。そのときはきっと心のなかで空気階段を擁護するだろう。だけどわざわざSNSで戦うかというと、多分そういうこともしなさそう。反撃されるのこわいから。誰かが叩きに叩きまくったあと、ちょっとずつ擁護する意見が出てきたあたりを見計らってそうだそうだと言うくらいの勇気しかない。

 

自分はジェンダーの問題を自分ごととして考えているけど、自分の好みを捨ててまで活動に邁進するつもりはない。少なくともいまのところは。自分の好き嫌いを捨てて、理念に忠実になれる原理主義な人しかジェンダーを語る資格がないかというと、そうではないと信じたい。でたらめなまま、自分の幸せを優先しながら、社会のことを考えたい。虫がよすぎるのだろうか。

 

たまにTwitterとかで、「普段は政治のことをつぶやかないですが、と言い訳をつける人が気に食わない。自分はずっとその役割を担ってるのに」みたいなことを言う人がいる。現代の女性たちは、過去の女性たちが戦った結果に得た権利を行使していることを理解せよ、みたいな言い分に私は黙るしかなくなってしまう。わたしがもし運動に目覚めたとしても、下の世代の人たちにそういう物言いをしないようにしたいと思ってしまう。なんならこうやって書くだけでも、誰かに怒られそうと言うおびえがある。フェミニズムについては、素直に思ったことを言いにくい。自分のなかの矛盾を吐露しにくい。それこそをなんとかしたい。

 

クラブハウスで22時から「深夜ラジオとフェミニズム〜小木さんを救いたい〜」というトークがあるらしいので聞いてみようと思う。おもしろかったら明日そのことを書きたいけど、あんまり詳しく書いたらルール違反なんだっけ。